Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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1975.2.19 「随筆 人間革命」「私の履歴書」「つれずれ随想」(池田大作全集…

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1  『少年日本』の廃刊とともに、私はそれまでの雑誌編集とまるで畑ちがいの信用組合の仕事につくことになった。好きな編集の仕事はつづけたかったが、事情が許さなかった。金融というのは私の性に合っていない、いわば最もきらいな仕事であった。それでも戸田社長が必要とし、断行された以上、恩師の再起のために、全力を尽くした。
 当時、東洋商業を卒業してから、私はともかく将来のことを考えて、大世学院(現・富士短期大学)に行き、同じく夜学に通っていたが、それさえも困難な状況となってきた。昭和二十五年(一九五〇年)の正月であった。私は恩師に呼ばれた。先生は事業がたいへんなことを説明され、君が頼りだと言われた。また、苦労をかけさせてすまぬ、とも……。生涯をこの人とともにと決めて立った私には、もったいない言葉であったが、師はつづけて「仕事も忙しくなるので、ついては夜学のほうも断念してもらえぬか。そのかわり、私が責任もって個人教授しよう」との話をされた。
 私は、大世学院をやめたが、以来、先生は仏法はもとより、人文、社会、自然科学、経済をはじめ、礼儀作法、情勢分析、判断の仕方、組織運営の問題など、すべてを教えてくださった。後日、富士短大から連絡があり、教授会の決定にもとづいて論文の提出によって私は卒業となった。各科目ごとに論文のテーマが出されたわけであるが、そのテーマは「日本における産業資本の確立とその特質について」(経済史)、「自由民権思想の諸内容」(政治思想史)などであった。
 ともあれ、戸田社長のもとで働くこと自体が教育であったといってもよい。先生の言々句々は、私という人間行動の基底部にいつもあり、それはわが生命に刻印された無形の財産となっているのである。
 さて信用組合の仕事のほうも、順調ではなかった。資金繰りが苦しくなり、ついに二十五年の八月に業務停止となった。出版事業の断念から一年をたたずして、信用組合も挫折したのである。残ったものは、当時の金額にして七千万円を超えた負債のようであった。債権者は連日のようにやってきた。戸田社長の憂慮は大きかった。なかでも事業の挫折が、会員の信仰に動揺を与え、学会の再建が遅れることを、最も恐れていたにちがいない。どんな厳しい状況になろうとも、恩師は学会の前途を、瞬時も忘れなかった。西神田の事務所は、つねに戸田先生の指揮する再建の本陣であり、講義も引きつづき行われていたのである。
 私は、私の人生の前途は、どうなってもよいと決めていた。ひとたび選んだ信念の道である。どこまでも私はその道を走りつづけることしか念頭になかった。恩師は毎日が身を切り刻まれるような逆境のなかでも、第一線の座談会に出席していた。そして、一人一人の市井の庶民の輪のなかで、足下の細かな問題から、人それぞれの悩みに親身に応じていた。
 八月の業務停止からまもなく、給料は遅配から半額支払いになり、やがて無配となっていった。一人去り、二人去りして、残った社員は、私のほか二、三人となってしまったのである。私自身、ワイシャツ姿で晩秋を過ごさねばならなかったのは、このころ、二十五年の秋霜の時である。私は当時、両親のもとを出て大森新井宿(現在、大田区)のアパートに小さな部屋を借りていた。森ケ崎の自宅からの出勤が不便だったことにもよるが、厳しい環境にあえて身をおき、自己を鍛錬しようとの気持ちがあったからである。
 悪いときには悪いことが重なるもので、そのころの私は、体調をますます悪くしていた。背中にいつも痛みがあり、くる日もくる日も三十九度近くの熱を出した。それでも私は気力だけで動いた。恩師と事業打開の糸口を求めて埼玉県の大宮方面に出かけ、不調に終わって、川の流れに沿っての帰路のことであった。
 終戦直後の暗い世相のもとで「星の流れに……こんな女に 誰がした」という歌が流行したものだが、私はその歌詞をもじって、ふとユーモアをまじえながら「こんな男に 誰がした」と歌ったのである。星が冷たくまたたいていた、美しい師走の夜だった。
 すると戸田先生が振り返られて「おれだよ」と言って屈託なく笑われた。生きるか死ぬかのような、苦境の時である。私は「おれだよ」の一言に熱いものを感じた。どんな自分になろうと、私はついていこう。感動の思いが五体を走った。師は冬の嵐のように厳しく、また春風のように暖かくもあった。

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