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日蓮大聖人・池田大作

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『少年日本』廃刊  

1975.2.18 「随筆 人間革命」「私の履歴書」「つれずれ随想」(池田大作全集…

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1  『少年日本』と改題が決まり、こんどこそと一念発起で飛び回っていたある日、いつもの下車駅・水道橋で、私はプラットホームに並んでいるいくつかの広告のなかに『少年日本』の広告を発見した。片すみの小さな広告であったが、私はうれしかった。戸田社長がたいへんななかを出してくれたにちがいない。胸が熱くなり、しばらく私は広告に見とれていた。
 十月号を「大躍進号」と銘打った。表紙は当時盛んだった少年野球の絵を使い「面白く為になる」と刷り込んだ。山岡荘八、野村胡堂氏の小説もいただき、内容も原子力時代の到来を予想し、少年に人気のあった小松崎茂氏の画を入れるなど、精いっぱいの工夫をこらした。私自身、山本伸一郎のペンネームでペスタロッチ等の伝記を書いたものである。教育者ペスタロッチには、その無私の教育への情熱に、以前から感銘をうけていたのである。
 十月号につづく企画も練って、詩人の西条八十氏にも依頼にうかがった。「少年たちに偉大なる夢を与えきれる詩を、ぜひ書いてください」とお願いした。性急な言い方であったろう。しかし西条氏は発言の意をくみ取ってくださった。しげしげと私を見つめ「偉大なる夢、いい言葉だ」と原稿執筆を約束してくれた。
 昭和二十四年(一九四九年)といえば下山事件、三鷹事件、松川事件とあいつぎ、混沌の色を濃くした年であった。青年としてなにか行動を起こさなくては、との強い衝動に駆られていた。私は少年少女に希望と勇気を与える雑誌づくりに力を注ぐことに、未来を開くたしかな手応えを感じていた。
 社の経営の危機は、直接タッチしていなくとも、わかり過ぎるほどわかっていた。とめどもないインフレ。その抑止のためのドッジ・プランによるデフレ。経済の振幅の激しい波のなかで、中小企業の経営は木の葉のように、どこも揺れていたころである。出版の先行きが暗くなりだしたころから、戸田先生は「時代が時代だ。経済面にも力を入れなければいけない」と言われていた。それは戦前から信用の残っている金融で経営基盤を安定させる以外にない、との考えであったのであろう。すでに二十三年の暮れには東京建設信用組合の認可を得ており、戸田社長は組合の専務理事でもあった。
 秋深まった十月末であった。『少年日本』の売れ行きも思わしくなく、ついに廃刊と決まった。全魂を傾けた仕事である。自転する地球が急停止したような気持ちであった。戸田社長の事業は、いよいよ険しい坂にさしかかっていたのである。
 私の少年少女にかけた編集の夢はくずれ去った。ちなみに『少年日本』十月号の編集後記に私は「いよいよ『少年日本』が新天地にむかい第一歩をふみだしました。(中略)新しい世界を築き上げる少年に、力強く豊かな気持を抱かせる様、希望して居ります」と書いている。それもはたせないままの休刊であったが、いま思えば、私が少年少女に次代を託した夢は、私の創立した創価学園や創価女子学園(現在は関西創価中学、高校。男女共学)で、教育の場をとおして実行に移されているし、近く創価幼稚園、小学校も設置する予定になっている。
 出版事業を断念した戸田社長は、前年発足した信用組合のほうも傾斜しはじめていたので、次の事業計画をしきりに練っておられた。このとき、戸田先生は厳然と言い切られた。「私は事業に負けたが、人生に負けたのではない」と。不屈の信仰による人生を教えられた言葉であった。
 私は悔しさのなかで恩師を思った。その夜、日記に大要こう書いた。 ──先生の行くところ、私はどこへでもついていく。そう思えば、社員の、あわてふためいている姿は、滑稽にみえる。
 多くの社員が次の職場を探しはじめていた。そして先生を厳しく批判しはじめた。ともかく、私は一人でひたすら出版の残務整理に励んだ。なによりも休刊を詫びねばならない。西条氏の原稿もとうとう使わずじまいになったが、いまも感謝をしている。
 この稿を書きながら『少年日本』の十月号に目を通した。これには画家の三芳悌吉さんに「南瓜の馬車で」という小説の挿絵をいただいている。三芳さんは、その後、私の小説『人間革命』の挿絵を最初から今日にいたるまで長いあいだ、担当してくださっている。なにかの縁を感じ、しみじみとした思いが浮かぶ昨今である。

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