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日蓮大聖人・池田大作

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日本正学館  

1975.2.17 「随筆 人間革命」「私の履歴書」「つれずれ随想」(池田大作全集…

前後
 
1  恩師との出会いから一年四カ月後、私は戸田先生の経営していた出版社・日本正学館で働くことになった。それまでの期間、私は私なりにひたすら今後の生き方と仏法について思索した。私にもし、いくばくかの逡巡があったとするならば、それは仏法の信条のままに生き抜くならば、多くの苦難の道が待っているであろう、とつねづね感じていたことによる。それは最終のふんぎりといってよかった。
 信仰した翌年の八月には夏季講習会に参加した。座談会にも夜学で時間のないなか、なんとか都合をつけて出るようにしていた。座談会の帰り道、先輩を見送りながら蒲田駅までの三十分、星空のもと仏法談義を交わしたりもした。私の関心は人間の生と死という、思想上の根本的な課題にあった。
 すべてが納得できたわけではなかった。しかし私の脳裏に魅力あふれる恩師の姿がいつもあった。入会後もいくたびかお会いし、私はますますその強い信念に打たれていたのである。今日まで悔いのない道を歩みつづけてこられたのは、まったくもって恩師のおかげである。
 昭和二十三年(一九四八年)の秋、戸田前会長の出版社で働いてみないかと突然聞かれたとき、一も二もなく「お願いします」と即座に答えた。まだ蒲田工業会に勤めていたので、仕事の一区切りまで時間を要した。辞めることになったとき、上司と同僚がささやかながら心のこもった送別会を催してくれたことを、いまも忘れない。
 日本正学館への初出社は二十四年の、松もとれない一月三日である。戸田先生から「来年からこい」と言われていたのでそうしたのだが、西神田の事務所へ弁当を持って、朝八時に出社した。ところがだれもきていない。九時まで掃除を終え十時になった。まだ社員はこない。そうこうするうち、一通の戸田先生あての電報が届く。私はお宅へ持っていくことにしたが、このときが戸田前会長の家を訪問した最初である。
 事務所は二階建てで一階が営業などの事務関係、二階へ通じるところに中二階があり、二階は八畳の部屋を真ん中に前後に六畳の部屋が二つあった。編集室は裏手の六畳の部屋である。戸田先生は八畳の部屋におられ、手前の六畳の部屋と合わせて、ここで法華経の講義などをされた。
 「松下村塾は小さな八畳の部屋が講義室だった。この部屋も小さいが、ここからかならず未来の人材が陸続と輩出する」と、よく先生は言っておられた。
 戸田先生は戦前も時習学館を経営し、出版事業を行っていた。戸田城外著の『推理式指導算術』はベストセラーになっている。戦後はいち早く通信講座の出版を行うなど実績があった。混乱期ゆえ用紙の確保からしてたいへんであったろうが、入社したころは婦人向けの雑誌『ルビー』と、私が編集することになった少年雑誌『冒険少年』を発行していた。
 編集部員といっても編集長と私のほか数人、それに使い走りのアルバイトの学生である。当然、企画から編集、原稿、挿絵の依頼、受け取り、校正まで、いっさいをしなければならなかった。それでも少年のころからの新聞記者か雑誌記者になりたいとの希望が実現した喜びで、大いに張りきって仕事をしたものである。
 それに私は元来、子ども好きである。敏捷な体、澄んだ瞳、弾む心、子どものすべてを愛した。若さゆえのひたむきさで、私は本気になって日本一の、子どもたちに愛される少年雑誌を、と駆け回ったものである。
 ところが大手の出版社に押され、本はなかなか売れなかった。当時、『少年』や『少女』がかなりの部数を出していた。私は一つには宣伝の弱さを痛感していた。経営が苦しいことは百も承知していたが、戸田社長に宣伝してほしい、と申し出た。しかし、かなわぬことに思えた。
 『冒険少年』の七月号から私は編集を全面的に任された。駅でもバスの停留所でも街を歩きながらも、私は始終、少年たちが何を読んでいるのか気にしていた。小学校の前に行って子どもたちにどういう内容を読みたいか、尋ねたりもした。
 それでも部数は伸びず、逆に返本がかさむようになった。『ルビー』がまず廃刊となり、『冒険少年』も『少年日本』と改題し、心機一転、出直すことになった。これは私のつけた名である。

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