Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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人生の師  

1975.2.16 「随筆 人間革命」「私の履歴書」「つれずれ随想」(池田大作全集…

前後
 
1  この日(昭和二十二年八月十四日)、この運命の師と会ったことが、私の生涯を方向づけることになったのであるが、そのときは知るべくもなかった。ただ、初対面ながらも不思議に親しみの情がわき上がってくるのを禁じえなかった。講義と質問への応答が一段落すると、戸田先生は微笑しながら「いくつになったね」と尋ねられた。仁丹をかみ、たばこをふかしておられた。十九歳ということを耳にして、ご自身も故郷の北海道から東京へ初めて上京したときもそんな年ごろだった、と懐かしげに語られる。
 私は、「教えていただきたいことがあるのですが……」と質問をした。「正しい人生とは」「本当の愛国者とは」「天皇をどう考えるか」、この三点であった。直截簡明な、しかも誠実な答えが返ってきた。少しの迷いもなく、理論をもてあそぶようなこともない。「これだ!」と思った。この人の言っていることは本当だ! 私は、この人なら信じられる、と思った。いっさいのもののあまりにも急激な変化のためであろう、何も信じられない、といったような心とともに、しかし、何かを探し求めていたのである。
 深い深い思いにふけり、自己の心の山々の峰をいかに越えようか、と考えながらも結論が得られずに悩んでいた私にとって、戸田先生との邂逅は決定的な瞬間となってしまった。その屈託のない声は、私の胸中の奥深くしみ入ってきたといってよい。私はなにかしらうれしかった。その日、自分の所懐を即興の詩に託して誦した。
  旅びとよ
  いずこより来り
  いずこへ往かんとするか
  月は 沈みぬ
  日 いまだ昇らず
  夜明け前の混沌に
  光 もとめて
  われ 進みゆく
  心の 暗雲をはらわんと
  嵐に動かぬ大樹求めて
  われ 地より湧き出でんとするか
2  夜十時近く、その家を辞した。蒸し暑い夏の夜であった。快い興奮と複雑な心境が入り混じり、精神は緊張していた。当時の青年にとって、宗教なかんずく仏教の話ほど、無縁の存在はなかったといってよい。正直いって、そのときの私自身、宗教、仏法のことが理解できて、納得したのではなかった。戸田先生の話を聞き、姿を見て、「この人なら……」と信仰の道を歩む決意をしたのである。
 さらに、話を聞くと、この戸田先生という人物は、戦時中、あの無謀な戦争に反対し、軍部独裁の国家権力の弾圧にもかかわらず毅然として節を曲げずに、昭和十八年(一九四三年)、治安維持法違反ならびに不敬罪で検挙され、投獄されながらも己の信念を貫き通したというではないか。これは決定的な要素であった。二年間の獄中生活に耐え、軍国主義思想と戦った人物には、信念に生きる人間の崇高さと輝きがある。極論すれば、当時の私にとっては「戦争に反対して獄にはいったか否か」ということが、その人間を信用するかしないかを判断する大きな尺度になっていたといっても過言ではない。
 その日の朝の新聞も、翌日の終戦記念日を迎えるにあたっての首相の呼びかけを掲載していた。紙不足でたった二ページしかない新聞の第一面に大きなスペースをさいて、平和・文化国家に再生するため、科学・技術・勤労・国際観という四つの視点から述べているものであった。しかし「平和・文化」という言葉は、処々に氾濫はしていても、それにいたる方法は甲論乙駁でいかなる道を採択するかに青年は悩んでいたにちがいない。私もその一人であった。が、戸田先生との出会いによって光が射してきたのであった。
 人びとの窮乏生活は、際限なくつづくインフレにより、いよいよ苦しくなる一方で、敗戦の重みが一人一人の両肩に、背にのしかかってきていた。お米の配給米の公定価格一つとってみても、この年の暮れには、終戦の年の十二月の基準指数を一とすると二十五倍にもなり、翌年には六十倍に急上昇するような具合であった。私自身の生活もたいへんだったといってよい。しかし生来の気質からくるものなのか、雑踏のなかの活力といったものが備わっていたからといってよいのか、ともかく、生活の困難さは気にならなかった。
 ただ、人びとが苦しみ、歎く混乱した状況を見ながら、なんの痛痒も感じない思想的安眠状態に漂うことはできなかった。思想上の“安眠”から精神的な“不眠”へと進む危機一髪のときに、私は人生の師に会うことができたのである。
 十日後の八月二十四日の日曜日、私は東京・中野の正宗寺院で授戒を受け、創価学会の一員として出発することになった。
 それからの日々、私は戸田先生との運命的な出会いを深化させながら、生涯、人間革命を断行し、宗教革命、社会革命に自分を捧げつくせるか否かの自己検討をしていた。決して強靭とはいえない自分の身体とのかかわりあいもあったからである。しかし、私は、やがてルビコンを渡った──。他に道がなかったからである。仏法教義とその現実の実践との振幅に悩みながら。

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