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日蓮大聖人・池田大作

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森ケ崎海岸  

1975.2.15 「随筆 人間革命」「私の履歴書」「つれずれ随想」(池田大作全集…

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1  「国破れて山河在り 城春にして草木深し 時に感じて花にも涙を濺ぎ……」(『杜詩』鈴木虎雄訳注、岩波文庫)。この有名な杜甫の詩「春望」が、ふと浮かんできた。これは、敗戦の焦土に生きる十代の青年にとって実感であったといえよう。私は、森ケ崎の海岸をよく友人と歩いていた。夜の浜は磯の香高く、微風が頬をそっとなでる。打ち寄せる波は、冴えた月光に照らされて、ときに銀色に輝いた。
 くずれかけた草深い土手の奥から、虫の鳴き声が聞こえてくる。孤独の友と、哲学を語り、文学を語った。そして、生と死とを──。貧窮の彼は、キリスト教信者になるという。
 「先日、内村鑑三の『代表的日本人』(鈴木俊郎訳、岩波文庫)を読んだが、『あの実に重要なる死の問題、──それは凡ゆる問題中の問題である。死のあるところ、宗教はあらねばならぬ』とあったよ」「うん、その死ということなんだが……」「いったい生命とは?」。
 静かな議論はつづいた。だが私は、キリスト教には魅せられない。
 次の日は、一人で散歩した。少年の日、泳ぎを覚えた南埋川の石垣に腰をおろす。光を反射する水面を眺め、思索するのも楽しかった。幼い日は、ボラやハゼが海から上がってくるのを、夢中になって釣った。「エビとり川」と小さい私たちが呼んで、よくエビやアサリを採りに行った深土の岸辺も訪れた。対岸は、羽田の空港である。空に舞い上がる飛行機も、ほとんど米軍機ばかり……。
 生活に疲れた人びとは、溜息と吐息の連続。皆、その日その日をしのぐのに精いっぱいであった。消沈、焦りの目、哄笑の渦。生活の様式が大きく変わり、既成の価値観が逆転し、あわただしく変動する時代に、いかに生きていくかはむずかしい問題であった。戦後の荒廃と虚脱が、思考力まで喪失してしまった人間を生み出す。このような世には、なにかしら抵抗せざるをえない。家の付近に住む二十歳から三十歳ぐらいまでの学生、技術者、工員、公務員など二十人ほどの青年たちが集まって、読書サークルを作っていたが、私もそのメンバーに加わり、人生の指標を探していた。
 当時、乏しい小遣いを蓄えて、意を決して買ったのは真新しい机と椅子であった。これも、懸命になって何かを学び、知りたいという当時の心の飢餓からくる欲求のあらわれであったのであろう。森ケ崎のわが家の六畳間にすぐ上の兄と同室していたのである。が、デンと置いた私の机は、兄の生活領域をかなり侵蝕したにちがいない。
 戦時中の勤労動員により、若者たちは頭脳のブランクを埋める必要を感じていた。年配者の多くは、敗戦という大激変により虚脱状態にあったが、青年は新しい知識を求めていた。物心ついてから、天皇を絶対とする国家主義をたたきこまれていた私たちの世代は、いっさいが空虚と化したことを知ったのであるが、まだまだ新しくやり直す気概には燃えていたのである。
 二回目の終戦記念日を迎えようとしていた蒸し暑い真夏のある夜である。小学校時代の友だちが訪ねてきて「生命哲学について」の会があるからこないかという。生命の内的自発性を強調したベルクソンの「生の哲学」のことかと、一瞬思って、尋ねてみたが「そうではない」という。私は興味をもった。約束の八月十四日、読書グループの二人の友人と連れ立って、その「生命哲学」なるものを聞きに向かった。
 占領下の東京、城南一帯はまだ焼け野原。小さなバラックや防空壕がいまだに散在している。夜、窓からもれてくる裸電球の灯も薄暗い。八時過ぎ、街灯もない暗い道を歩いていった。めざす家の玄関をはいると、二十人ばかりの人びとがいたが、ややしゃがれた声で、屈託ない声でしゃべっている四十代の人の顔が目にはいった。広い額は秀でており、度の強い眼鏡の奥が光る。その座は、不思議な活気に燃えていた。自由闊達な話を聞いていると、いかなる灰色の脳細胞でも燦然と輝き出すような力があった。
 この人物が、私の人生を決定づけ、私の人生の師となった戸田城聖先生であった。

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