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日蓮大聖人・池田大作

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新しい職場  

1975.2.14 「随筆 人間革命」「私の履歴書」「つれずれ随想」(池田大作全集…

前後
 
1  終戦とともに、軍需工場であった新潟鉄工所は、当然のこととして閉鎖になっていった。失業者の多いこのときに私は幸いにも選ばれて、下丸子(現在の大田区)にあった東洋内燃機に一時籍をおくことができた。新潟鉄工の同僚も、二、三十人いっしょに行ったようである。
 翌年(昭和二十一年)、西新橋にある小さな印刷会社に移った。その昭文堂印刷の主人は、山梨県出身の黒部武男さんといって、商売熱心の人であった。新潟鉄工時代、海軍から工場勤務に派遣されてきていた人が、その黒部さんといとこ同士ということで、その方の紹介によるものである。
 新潟鉄工の友人二人に私を加えて三人いっしょに採用してくれ、との話が黒部さんに持ちこまれたようである。印刷会社といっても、焼け野原に建てられた粗末な平屋造りの工場であり、働いている工員も数人といった家内工業的なもので、そこに一挙に三人の入社ということは、当時としてはかなりの勇断であったにちがいない。
 ともかく、私は、森ケ崎の自宅から、通うようになった。神田・三崎町の夜学へ通っていた私にとって、会社が西新橋にあるということは一つの魅力であったことは否定しえない。朝、家を六時半ごろ出て三十分ほど歩くと梅屋敷駅へ着く。そこから京浜急行に乗り、品川駅まで行き、国電に乗り換え新橋駅で降りる。露店の闇市が線路ぎわに立ち、日用雑貨を売っていた。浮浪者は駅の近くに満ちあふれていた。新しい職場は、駅から歩いて、約十五分ぐらいのところにあった。
 私の仕事は、得意先から印刷物の注文をとり、それを図面にトレースして印刷工に渡し、刷り上がってきた品物を責任もって校正することであった。主な注文は、いわゆる端物といわれた伝票や申請書などであった。六本木にあった東洋英和女学院などに自転車を走らせ、印刷したての成績表、出欠簿、各種証書を届けた。
 家族的な雰囲気の職場で、工場の引っ越しのときも皆でやった。東京都から、希望者にプレハブ建物の提供があり、それを自分たちで組み立て新しい工場を造ることが必要であった。金槌やクギをもって、私たちは工場を建てた。屋根作りに張りきっていた同僚が、屋根の上から落っこちてしまい、傷の手当てをするやら病院へ連れていくやらでたいへんだったこともあった。
 私の体は、依然として悪い状態であった。黒部さんは、私の体が丈夫でないことに心を砕いてくれ「疲れたら休んで結構ですよ」と注意してくれたりなどした。一年余りして、体の状態がもたず退職の願いを出し、しばらく自宅で静養するようになったときなども、私の将来を案じて、私が最もよい道を選べるように心配してくださったようである。
 幸い、私の仕事にも全面的に信頼を寄せられていたようで、内心はできるだけ長く自分の工場で仕事をしてもらいたいと思っておられたにちがいない。しかし、この方は、工員からたたきあげてきた苦労人で、なにも私のみにかぎらず、だれに対しても、その人にとって、最もよいコースをとらせてあげたいと考えるような人物であった。
 退職し、しばらくして、家から近い蒲田工業会の事務員書記として勤めるようになった。微熱はつづき、まだ血痰は出る。しかし、事務仕事なので体を酷使することはなく、その点は楽である。そこでの直接の上司は小田原政男さんという方で、律義で正義感に燃えた方であった。この蒲田工業会は、昭和二十一年(一九四六年)の春、蒲田地区近くの中小企業工場の再建と復興を図るために設立されたものである。
 私は、当時、夜は東洋商業の夜間部へ通っていたので、昼間の勤務も学生服が多かった。家が近く、下駄をはいて通っていた日もあった。昭和二十三年九月に蒲田工業会館が落成したときの記念写真があるが、その写真にも私は学生服の姿で写っている。

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