Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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忘れ得ぬ鏡  

1975.2.12 「随筆 人間革命」「私の履歴書」「つれずれ随想」(池田大作全集…

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1  敗戦──。それは私にとって一つの大きな区切りであった。敗戦は予想されていた。いつくるかが問題であった。しかし実際に敗戦となると、感慨は深かった。
 戦争は生活のすみずみに投影されていた。行動のすべては、戦争とつながっていた。昭和三年(一九二八年)前後に生まれた世代にとっては、それが実感であったと思う。その戦争が今日で終わった。天皇の名で始まり、天皇の名で遂行された戦争が、玉音放送で終わった。これから新しい日々が、まったく新しい日々が始まろうとしている。そのひめやかな予感のなかで、十七歳の私は不安と期待を交錯させていた。
 しかし現実には、人びとは生きていくのに精いっぱいであった。荒廃した街に残ったのは、食糧事情のいよいよの悪化であった。四人の兄は終戦後も外地より復員せず、私がイモの買い出しに出かけた。千葉方面へ満員列車で向かう。人びとは争って食糧を求めた。車中には敗戦の空虚さはともかく、庶民の雑草のような根強さがあった。時代がどう動こうとも必死に生きていこうとする庶民の哀歓は、好ましい世界でもあった。リュックにイモを背負っての帰り、私は一種の喧噪のなかに身をまかせつつ、これからの進路を思った。
 当時の母は、わが子の復員のみが希望だった。とくに長兄・喜一のことは気がかりのようであった。中国大陸から南方へ向かって以後、音信は途絶している。もしか戦死したのでは……という思いを口にすることは、かわいそうで、とてもできなかった。
 長兄と私を結ぶ鏡の破片がある。なんの変哲もない、約一センチの厚さの破片である。鏡は母が父に嫁ぐときに持参したもので、いつの日だったか割れてしまった。その鏡の破片を長兄も私も持っていたのである。長兄は大切にそれを持って出征した。私は自分の手元にある鏡を手にするたびに、戦場の兄を思ったものである。空襲のときも、私はその鏡の破片を胸に焼夷弾をくぐった。
 終戦後、三番目の兄が二十一年一月十日、まず復員した。つづいてすぐ上の兄が同年八月十七日復員、栄養失調でまるで幽霊のようだったことを覚えている。そして一カ月後の九月二十日、二番目の兄も帰ってきた。だが長兄の消息は依然としてわからなかった。やがて終戦から二年目の年が明けた。冬が過ぎ、焼け跡にも桜が咲いた。しかし、長兄は帰ってこなかった。母は夢に見たとよく話した。「喜一は、大丈夫、大丈夫だ、かならず生きて帰ってくる、と言って出ていった」。母はこれを口にすることで、みずからを励ましていたようである。
 空に初夏の雲が流れるようになった五月三十日であった。役所の年老いた人が一通の便りをもって訪ねてきた。わが家は終戦直後に馬込のおばのところから、森ケ崎(現在、大田区)に移転していた。父の家作だった家である。一通の便りを届けるのに、役所はひどく手間どったそうである。空襲でほとんどの家が親類、知人を頼りに転々としていた状況だったから、それはやむをえないことであったろう。
 母がていねいにお辞儀をして書状を受け取った。受け取ってすぐ母は後ろを向いてしまった。母の背が悲しげだった。その書状は戦死の公報であった。それによると、二十年一月十一日、享年二十六歳(正しくは二十九歳だが、公報では二十六歳と表記されている)ビルマ(現ミャンマー)で戦死、となっていた。遺骨を受け取りにくるように、ということで兄が品川まで行った。帰ってきた遺骨を抱きかかえるようにした母の姿を、私は見ることができなかった。以来、母はめっきりと年老いたようである。父もゼンソクや心臓が悪くなり寝こむことが多くなった。強情な父、いつも努めて明るくあろうとした気丈な母も、長兄の戦死の報に心中深く、思いっきり泣いたにちがいない。
 それから五年後、私は結婚したが、鏡の破片はいまも私の手元にある。妻が桐箱に入れて大事にしまっているが、ビルマに散った兄の忘れがたみとしている。後年、仏教発祥の地・インドへ赴いた途次、私はラングーン(現ヤンゴン)に寄った。無名戦士の墓に詣でて、心から冥福を祈ることができた。戦争の無残さを、私は南の空の青さとともに、この胸にしっかりと刻印して帰ったのである。

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