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日蓮大聖人・池田大作

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赤焼けの空襲   

1975.2.11 「随筆 人間革命」「私の履歴書」「つれずれ随想」(池田大作全集…

前後
 
1  戦局は日を追って激化した。敗色は濃厚になっていく。蒲田一帯にも空襲がつづいた。「進め一億火の玉だ」のスローガンもすでに空しくこだました。
 昭和十九年(一九四四年)に、すぐ上の兄が軍用列車に乗りこむのを品川駅頭で見送って以来、九人の子どものなかで五男の私が、一家の面倒をみていくようになった。空襲が激しくなり、江東方面は二十年三月、大空襲にあい、死んだ都会が残った。糀谷二丁目の家は、空襲による類焼を防ぐため、同月、強制疎開させられることになった。家は取り壊され、一家は住む家を失ったのである。やむなく馬込のおばの家に新しく一棟建て増して、お世話になることになった。両親とも代々江戸っ子のわが家には、田舎というものがなかったのである。
 どこの家も困難ななかを、必死に生きていた時代であった。おばの家も同様である。強制疎開が決まると、少しずつ分けて荷物を馬込へ運んだ。春まだ浅いころである。リヤカーで運ぶのに数時間はかかった。すでに胸部疾患の私である。汗が噴き出て、呼吸が荒くなり、たいへんな重労働であった
 それでもようやく家具などすべてを運び終えた。まがりなりにも家の体裁もととのい、あすからは父母も引っ越すという前夜、五月二十四日の空襲があった。馬込にも焼夷弾が降って、夜空を赤く焦がした。火の手は随所にあがり、とうとうおばのところも直撃を受けて全焼してしまった。私は噴き上げる火の中を、必死になって荷物を持ち出そうとしたが、大きな長持ち一つを、下の弟と一緒にかろうじて持ち出せたにすぎなかった。あとはなに一つ残らず、まったくの裸同然で焼け出されたのである。
 翌朝、ぼう然としつつ、皆で焼け跡を片付けた。長持ちも開けられた。ただ一つ残った財産である。ところが開けてみて唖然とした。それはひな人形のはいった長持ちで、コウモリガサも一本、申しわけなさそうにはいっていた。
 必死で持ち出したのがひな人形とは。心の落差は大きかった。あすから、いや今夜どうすればいいのか。弟も妹もいる。そんなときであった。母はこう言った。
 「このおひなさまが飾れるような家に、きっと住めるようになるよ。きっと……」
 母もガッカリしていたことは間違いない。しかし母は努めて明るくこう言ったのである。母の言葉には千鈞の重みがあった。皆はつりこまれるように笑った。笑いのなかに希望が生まれていくようであった。
 私たちは急ごしらえのバラック小屋に住むことになった。屋根はトタンを打ちつけた代物である。夏の夜、昼間の余熱があって部屋はうだるように暑かった。父は病気がちになっていて、寝苦しそうに何度もうなる。そんな父を見て、思わず私は屋根に上がり、バケツで水をかけたりした。
 戦争の無残さは、津波のようにわが家を襲い、すべてをめちゃくちゃにした。私はいつとはなしに戦争の無意味さを、問い始めるようになっていた。何のための戦争か。戦争の悲惨さはこの五体に刻みこまれ、その体が戦争の告発へと向かっていったのである。
 私の反戦平和への心の軌跡をたどるとき、こうした原体験から発していることは明らかである。それだけに強く、深い。一度は少年航空兵をこころざし、青春の真昼を前に、この生命を戦争で終わらせても……と思った自分である。戦争に対したときの、人間の内面の動き、心の振幅は人によってさまざまであろう。しかし、心が戦争を生み、人をして戦争に走らせ、やがて戦争を憎むということだけは、そのときからよくわかった。
 敗色は明らかになっていく。私は人知れず反問した。これからどう生きていくのか。戦争の終わりは、だれも口にこそ出さなくても、近いことは察知していた。トタンの破れたところから、月がのぞいている。焼け跡を照らす妙に冴えた月光であった。空襲で本を失ったのはとても残念であったが、私はトルストイの『戦争と平和』などを頭でもう一度読み返したりしていた。
 青春を戦争のなかで位置づけられてきた自分にとって、残っているものはなにもなかった。体は毎晩寝汗をおびただしくかくほど悪くなっていく。ともかく学問以外にないだろう。戦争が終わったら勉強することだ──と漠然とではあるが、あすを考えるようになっていた。

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