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日蓮大聖人・池田大作

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散る桜  

1975.2.10 「随筆 人間革命」「私の履歴書」「つれずれ随想」(池田大作全集…

前後
 
1  人びとの心はすさみ、物資は窮乏していった。私は、現場から事務係のほうに回されていた。先輩が私の健康を心配してのはからいと思う。そんな戦時下の軍需工場にあって、私の一つの楽しみは、昼休みに工場の芝生の中庭で、読書にふけることであった。本を読むことは好きだった。休みの日など、読書する静寂な場所を求めて、近くの墓地へ行って、終日、本を読んでいることもあった。ここは、めったに人がこないから、だれにも邪魔されることなく、集中して本のなかを歩くことができた。
 近ごろは、年のせいか、物覚えも悪くなり若い時のようにはいかないが、その“墓場の時代”は、おもしろいほど、なんでも頭の中に吸いこんでいった。詩などはとくに好きであったが、気に入った個所は何ページもまるまる暗記して、道を歩きながら口ずさむ。書物は、多感な青春時代を、戦争という特殊状況で過ごす私にとって、なににもまして自分を慰め勇気づけてくれる“友人”であった。
 昭和十九年(一九四四年)三月には、中学生の勤労動員大綱が決定され、同八月には学徒勤労令、女子挺身勤労令が発令され、戦争は激化していった。私の工場にも、近くの荏原中学から学生たちが学徒動員で働きにくるようになった。その中学生たちと年齢的に同じということもあって親しくなり、週二回から三回、気の合った五、六人の友と休み時間、ほんの十分か二十分程度ではあったが、文学の話をするのが楽しかった。
 そのなかの一人が図面を保管する静かな部屋の担当をしていたのを幸いに、私たちの即席読書グループは、その小部屋をしばしのあいだ占領し、内側からカギをかけて、語り合った。最近読んだ本の読後感を述べ、読みたい本などは手分けして、古本屋や、親類の家を回って探したものである。
 その当時の私の関心は、一点は「生命というものは大事だ!」であり、二点は「戦争はどうなるのか!」ということであった──と、そのときの友人が言っている。これはおそらく軍需工場で働き、空襲にあい、書物を読み、また、兄たちを次々と戦争にとられたみずからの実感からきたものであろうし、生命の問題も、やはり、身近なものの戦死、また自身の病弱な体を見つめざるをえない状況からきたものにちがいない。
 一方、アメリカ空軍の東京空襲は二十年にはいると連日のようになり、焼夷弾は雨のように落とされた。城南の地に焼け野原は広がっていった。防空壕とバケツ、空襲警報……。戦争の直接、間接の犠牲者はかぎりがなかった。戦争はあまりにも残酷であった。少年の日、遊んだ糀谷の家の広い庭に咲いていた大きな桜の木もいつしか切られ、そのあとは軍需工場に変わっていった。
2  また大空襲に見舞われた工場や家々はそのほとんどが焼けてしまった。蒲田六郷に近い静かな寺院の一角が不思議に焼け残っていた。私は、物思いにふけりながら一人で歩いていた。と、幾本かの桜が、生き残り、美しく咲き薫っていた。私は立ちどまった。感慨こみあげるものがあった。
 私は湧き起こる感情を詩に託して詠んだ。
 稚拙な詩ではある。しかし、私の十七歳の日の一つのまぎれもない断面である、ということで、ここに記してみたい。
  戦災に 残りて咲きし桜花  空は蒼空 落花紛々
  その背景は 現実の廃墟   花仰がずして 民憐れなり
  流浪の彼方 厳しや     親子の道
  群居の波に 開花あり    夜明けの彩色か 桜花
  ああ複写あり この存在   権力人と 平和人
  散る桜 残る桜も 散る桜と 謳いし人あり
  青春桜 幾百万       なぜ 散りゆくか 散りゆくか
  南海遠しや 仇桜      爛漫未熟に 枝痛し
  残りし友も いつの日か   心傷あり 理念界
  諸行は無常か 常住か    それも知らずに 散りゆくか
  散る桜 残る桜よ 永遠に  春に 嵐と 咲き薫れ
 私は、この終戦の年の春十七歳に詠んだ自作の詩に「散る桜」と題をつけた。

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