Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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血痰  

1975.2.9 「随筆 人間革命」「私の履歴書」「つれずれ随想」(池田大作全集第…

前後
 
1  実習工場は第三工場と呼ばれていた。私は、そこで働いていた。入社時は、二、三千人ぐらいの人びとが勤めていたようだが、戦局の展開と、激化につれて、人数はぐんぐんと増えていく。町の標語も昭和十八年(一九四三年)の「頑張れ! 敵も必死だ」から、翌十九年は「進め一億火の玉だ」と戦争一色へ。二十年ごろには、一万人近くはいたのではなかろうか。学生が勤労動員され、女子挺身隊員も働くようになり、商店の人びとも徴用され、戦地に行かない水兵まで続々と働きにはいってきた。
 海軍省の指示下にあるこの軍需工場から生産されていくものも、海防艦、水雷艇、駆潜艇などの大型・中型船舶の内燃機関や種々の部品から、しだいに小型の特殊潜航艇へと変わっていった。いわゆる人間魚雷である。空からは「一機一艦」とのスローガンで特攻機作戦がとられ、海からは、特殊潜航艇が建造され、敵艦を求めて孤独に進んでいった。「自分の一個の生命を賭して、敵艦一隻を沈めるために体当たりを!」──青年たちは、このような思想を吹き込まれ、死地に赴いていった。
 もちろん、私たち工場で働いている人間には、ただ「これは海軍に必要な兵器」としか説明されなかった。しかし、完成図を見たり、貨車に積まれていく完成品を目撃すれば、自分たちがなにを作っているのかわかる。毎朝五分ないし十分ほどの朝礼があり、全工場へ海軍から派遣されてきている技術将校の訓示がスピーカーから流れてくる。「諸君はお国のために働いている。真心こめて作るように……」と。
 天皇の写真が飾ってある前で直立不動の姿勢をとり、深々と礼をし、教育勅語を一人で大きな声で暗誦している青年の姿がしばしば見受けられた。失敗したり、たるんでいると、先輩や教官から気合を入れられて、そのようにさせられたのである。
 青年学校での軍事教練もいよいよ強化されていった。十九年の夏の日であったと記憶するが、いつものように、蒲田駅の近くの工場から、木銃を持って多摩川の土手へ向かって行進していた。二百人ぐらいであったろうか、真夏の太陽が照りつける猛烈に暑い日であった。
 私は先頭集団の一員として歩調をとって行進していた。午後二時ごろであったろうか、六郷橋の手前の航空機の付属品メーターを作っている工場の近くまできたときである。私は、急に気分が悪くなって倒れかけてしまった。皆が「どうした! どうした!」と駆け寄ってきて支えてくれた。なんとか六時過ぎまでの教練をもちこたえた。
 が、血痰を吐いた。口をあわてて押さえて、紙でふきとった。そのころ、私は結核が相当進行し、体は日々衰弱し、さらに疲労が積み重なる、という悪循環を繰り返していたのである。三十九度の熱を押して、出勤したこともあった。リンパ腺ははれ、頬はこけはじめた。医師に悠々とかかれる身分でもなく、また世の中の雰囲気はそんなことを許すような状況にはなかった。『健康相談』という雑誌を唯一の頼りにして、自分の体は、自分の力で調整しなければならない。実際、私の結核の病状は悪化し、血痰と寝汗と咳の連続であった。二十年にはいったころは医師のすすめで鹿島の結核療養所へ行かなくてはならないだろう、というところまでいっていた。これは、幸か不幸か、結局は二十年四月十五日の蒲田の大空襲のあおりで実行には移されなかったのだが……。
 敗戦が近づいているというような空気が、人びとに感じられるようになった二十年の春ごろであったろうか。私たちは蒲田の工場から歩いて二、三十分の酒井分工場へ出向いた。二、三十人だったろう。多摩川大橋を渡る手前をちょっと入ったところである。
 ところが、この分工場も四月の空襲で焼けてしまった。その後始末を二、三カ月かけてやり、再び蒲田の工場へ戻ってきた。高速機関を作る工場で、私たちは「HM工場」と呼んでいた。

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