Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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汗と油  

1975.2.8 「随筆 人間革命」「私の履歴書」「つれずれ随想」(池田大作全集第…

前後
 
1  昭和十七年(一九四二年)四月、私は家が近いということもあり、また、三番目の兄が勤めていた関係から蒲田の新潟鉄工所へ入社した。その前年の十二月八日、日本軍はハワイ真珠湾を奇襲し、太平洋戦争が始まっていた。その年の暮れの二十五日は香港占領、明けて一月はマニラ、つづいて二月はシンガポールを攻略し、連戦連勝。まさに破竹の勢いで戦線は拡大されていく。戦局の転機となったといわれるミッドウェー海戦は、私が入社してから二カ月後であったので、世は戦勝気分が横溢していた。
 新潟鉄工もまもなく海軍省の船舶本部から技術将校が派遣され、軍需工場として、艦船部門の一翼を担い、フル回転をしていった。軍国調の時代の波は、各工場や会社を洗い、社内には青年学校が設けられ、入社した者は、そこで軍隊的な教育・訓練を受けねばならない。修了年限は五年間。ただし、私の場合は卒業を待つまでもなく、敗戦となり、工場の閉鎖とともに自動的に青年学校も消滅したのであったが……。
 私たち新入社員は、A・B・Cの三クラスに編入され、一クラス五、六十人で授業を受けた。私はBクラスであったように思う。授業時間は、午前中の場合もあったし、午後に行われたときもある。ともかく一日のうち、半日は各学科の勉強、残り半日は工場実習であった。半年あまりは、見習い期間で基本的な機械操作を教え込まれた。
 時代を反映してか、青年学校では、指導教官や先輩から下級生に対する往復ビンタなどもかなり激しくとんでいた。のどかな学校生活というような雰囲気はまったくない。ある日、一人の指導員がネジの切り方に関連して、方程式を黒板に書いて説明していた。ちょっと、その解析について十分に理解できない点があったので、私は手をあげて問いを発した。
 ところがその人は、突然、怒り出した。「そんなことはわからんでいい! 生意気なことを聞くな!」とどなる。私は驚いた。北海道や東北など地方からの出身者も多く、その同期の友人たちは、授業中にあまり質問などしなかったので、一人質問をする小柄な青年がことさら目立って勘にさわったのであろう。時代は、軍人精神はなやかなりしころで「問答無用、オイ、コラ、黙れ!」と、人びとの心は荒れていたにちがいない。
 私は、朝は、定刻の一時間ぐらい前には出社して、机や椅子を掃除することにしていた。別に、だれから言われたことでもないのであるが、社会人としての第一歩を踏み出したということで、大いに張りきっていたからなのだろう。指導員の助手をしている先輩が「そんなに毎日、一人で掃除をやらなくてもいいよ」と言ってくれたとき、親譲りの清潔好きな私は答えた。「でも、こうしてきれいにしておけば、皆、少しでも気持ちよく授業を受けられ、仕事ができると思いますから……」と。これは、その当時のごく率直ないつわらざる感情であった。
 青年学校の校服は、ちょうど南京袋のような感じの粗い麻服であった。その作業衣を着ながら、鉄塊や図面に挑んだ。タガネを左手に持ち、大きなハンマーで力いっぱい打ち込むのであるが、棒のような細いタガネにハンマーが命中するかどうか自信がないので、ついタガネの位置とハンマーの行く手を見てしまう。しかし、そのような姿勢をとると力がはいらないから、との注意を受ける。手元など見ないで腰から力を入れ、肩の後ろから全力でハンマーを振りおろせ、と。初めのうちは、やはり、左手の人差し指に、タガネの頭を打ちそこねたハンマーがもろに当たり、骨が砕けるような激痛を覚えた。毎日、血豆ができ、指は真っ赤にはれあがり、ずいぶんと痛い思いをした。不器用な私には、先輩、同僚の見事な技術が、うらやましくてならなかった。
 六尺のタレット旋盤でネジを切る。油が飛ぶ。普通旋盤で鉄棒を切断し、ミーリングを使って穴をあけ、フライス盤を操作して次々と切削作業を行う。モーターの音が工場内に響く。熱をもって赤く焼けた鉄粉が飛び散り、やけどの危険がつきまとう。油にまみれ、汗を流し、神経を鋭く張りつめながら、私は、精いっぱいに働きつづけた。
 いま思うとき、当時、身につけた機械工作の基礎的技術が、どういうわけか現在でも人生を語るときになにかと役に立って感謝している。

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