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日蓮大聖人・池田大作

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軍靴の音  

1975.2.7 「随筆 人間革命」「私の履歴書」「つれずれ随想」(池田大作全集第…

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1  銃後の守りとか軍国の母とか、いかに体よく賛美されようとも、戦争の最大の犠牲者は女性であろう。夫を、子どもを戦場へ送る悲しみを、出征のさいの万歳の叫びで打ち消すことは、とてもできない。
 尋常小学校を卒業したのは昭和十五年(一九四〇年)である。中学校へ進学したかったのはもちろんである。だが家の状況からは、それを考えることだにできなかった。私は高等小学校へ進んだ。二年生の時、昭和十六年十二月八日、真珠湾攻撃があった。臨時ニュースが国中に流れた。異様な興奮はそれを報じた新聞を配達しながらも、手にとるようにわかった。
 そのころ、長兄の喜一は、四年ぶりに一時、除隊になって家に帰っていた。十六年七月から十七年十二月まで家にいたのである。戦線の拡大とともに長兄はふたたび戦場へ赴いた。次兄も、三番目の兄も。やがては四番目の兄の出征も時間の問題であった。
 私が当時、戦争に負ければよいと思っていたといえばウソになる。ただ戦争が早く終わってほしいと思っていた。もちろん愛国心はあった。それはもう徹底して植えつけられたのである。すべての価値観が天皇にあり、国家にあった。教育の恐ろしさは、幼時の純白な心のキャンバスに、自在に色を塗っていけることだ。それはいまになってわかることである。
 高小を出たら少年航空兵になろう、私はそう思っていた。勇んで兵士に憧れて志願していく友だちに刺激されたことは言うまでもない。次々と息子を兵隊にとられた母の寂しさはわかっていたが、私は志願した。軍国主義下の必然の心の軌跡だったのであろう。
 戦後、私は同時代の仲間と同じように、いっさいが信じられなくなった。皇民化教育をうけ、そこに青春の燃焼を見いだしていた者にとって、ポッカリ空いた心の空洞に、衝撃の嵐が吹きすさぶ思いを禁じえなかった。振り返ってみたら、自分たちの歩んだ道が、自分のそのすぐ後で音をたてて瓦解し、道は完全に失われていたのであった。青春の破局を前にして、自分の来し方を苦痛のうちに顧みても、なにも残っていないのであった。
 ただ私には無残な原体験のみが残ったのである。戦争とともに家はめちゃめちゃになり、長兄は死んだ。父も母も最大の犠牲者の一人である。
 私が少年航空兵に志願したとき、父と母は猛然と反対した。もうたくさんだ、という時勢を超えた本当の叫びだったのであろう。
 志願書をもとに海軍の係員が、家に尋てきたという。私は留守にしており、その場にはいなかったが、すぐ上の兄が一部始終を目にしている。父は係員に言った。「私は絶対に反対だ」と。
 「うちは上の三人とも兵隊に行っているんだ。まもなく四番目も行く。そのうえ五番目までもっていく気か。もうたくさんだ!」。係員は「わかりました。当然でしょう」と静かにいって帰っていったという。強情な父の気迫に押されたというより、その人も心でわかってくれたのであろう。
 父は私も叱りつけた。どんなことがあっても行かせない、と言いつづけた。父からあれほどの勢いで言われたのは、あとにも先にもこのときだけである。もし志願し、通っていたならば、そして戦争が長引いていたならば……いまになれば父に感謝しているが、私は不満であった。
 眠れない床で私はなぜか長兄の言葉を思い出していた。長兄がふたたび戦場へ赴くとき、私はこう言われた。「うちに残って両親の面倒をみてあげられそうなのは、どうやらお前だけだ。両親を頼んだぞ」と。耳元でその言葉が反復されて聞こえてくる。事実、私が兵隊へ行ったら、父母がどうなるかは明らかだった。私は断念した。 まもなく──すぐ上の兄が出征した。「体だけは大事にね。生きて帰ってほしい」。「若鷲の歌」をうたいつつ、私は兄を見送った。それから終戦後しばらくのあいだ、一家は私だけが頼りだった。長兄の夢を見た、とうれしそうに話したあと、ふと悲しげな顔を見せた母の表情が、私には忘れられない。

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