Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

寒風の中を  

1975.2.6 「随筆 人間革命」「私の履歴書」「つれずれ随想」(池田大作全集第…

前後
 
1  転居してうれしかったのは、学区が同じで小学校をかわる必要がなかったことであった。だが生活は困窮する一方で、私はすぐ上の兄とともに新聞配達をした。たしか小学校六年の時から、高等小学校の二年間、計三年間配達した。月給は六円だったと記憶している。
 寒風の朝、手に吐く息が白い。肩にずしりと食いこむ新聞の感触。家が密集してなかったので配達の区域は広い。音をたてて新聞を折り、一軒一軒に投げ込む。夕刊も配達した。冬の日の暮れるのは早い。友がこたつで憩う時間である。汗ばんだ肌がひんやりとするほど、外は寒かった。配達を終えるとなにか今日もやったぞ、と爽快な気分になった。私はどちらかというと感傷には負けたくなかった。何事も目の前にあることを乗り越えることからスタートする。この経験はかならず生きるときがくると思いながら、街を走った。それから三十数年たっても、毎朝わが家に届けられる新聞に配達員の方の苦労がしのばれる。
 いつのころからであろう。私は漠然とではあったが、将来は新聞記者か雑誌記者になりたいと思うようになった。尋常小学校、高等小学校、戦後の夜学生時代、私にはじっくり落ち着いて勉強できる環境は、ついぞなかった。そのかわり本は読むように努力した。人に負けないほど読んだと思っている。文筆をこころざしたのも、読書が大きくあずかっていよう。
 また新聞配達をしたことも、将来の希望へとつながっていったように思う。自分が抱えて走るこの新聞から、人びとは世界、社会の動きを知っていくのだ──という少年らしい感情が生まれたことは事実である。私が配達していたころは、いま思えば日本中が異常なまでに、戦争の動向に関心を払わされた時代である。中国大陸での動きなどを伝えた新聞を、いまかいまかと待っている家庭が多かったにちがいない。
 家計に余裕はなかったが、六年生の時、修学旅行に行けた。いまになれば母がそのために家計をやりくりしたことがわかるのだが、とにかく旅のうれしさのほうが大きくて、胸は躍った。伊勢、奈良、京都など関西方面を四泊五日で旅行、行き帰りが車中泊である。とくに京都は明治維新の舞台であっただけに興味をもったが、楽しく騒いだことのほうが思い出として残っている。
 友だちとワイワイ言いながら、私は母が用意してくれた小遣いを第一泊目におごってしまい全部使い果たしてしまった。菓子を買っては気前よく皆に分けてばかりいた。ところが、おみやげを買うときになって困った。
 担当は三年、四年の時の先生とかわっていたが、そのH先生もいい方だった。私にこう諭すのであった。「池田君、みんなにあげてばかりいないで、家にもおみやげを買っていくんだよ。お兄さんは兵隊に行っているんだろう。せめてお父さん、お母さんにおみやげを買っていくんですよ」──。
 私がほとんど使い果たしたことを知って先生は、私をそっと物陰に呼んでお小遣いをくれた。二円であった。私はお礼を言うよりも、ほっとした気分になって、あれこれおみやげを物色したものである。家に帰って父母におみやげを得意げに渡した。そのときに事のてんまつを話したところ、母は「先生のことは忘れてはいけませんよ」と言った。私はその後もH先生と文通をつづけている。
 教育とは教室で習ったすべてを忘れ去ったあとにも、なおかつ心に残るなにものかであろう。六年生の担任の先生から、私は尊いものを教えていただいた。師の恩ということが、なにか古くさい、封建的な考えのように思われがちな現在だが、教育に温かいぬくもりが失われがちな現代だけに、私は幸せであった。
 そのころ、長兄も次兄も出征していた。次々と兵隊にとられて、母は寂しそうであった。中国大陸への不当な侵略戦争は拡大し、ノモンハン事件が起きていた。ナチス・ドイツ軍がポーランドに侵入し、第二次大戦が勃発したのは昭和十四年(一九三九年)である。わが家へも軍靴は土足のまま踏みこんできた。
 母は働き手を次々に失って、困窮する家計のやりくりで苦労した。近くの海でとれる小魚が食卓にいつものぼった。「骨まで食べるんですよ」これが母の口ぐせであった。病弱の私になにか栄養をと思っても、それもできず、こう言うのが母の精いっぱいの愛情だったのであろう。

1
1