Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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短い春  

1975.2.5 「随筆 人間革命」「私の履歴書」「つれずれ随想」(池田大作全集第…

前後
 
1  小学校は田んぼの真ん中にあった。霜が降り、やがて田が凍りつくと、道を通らずに田を横切って一直線で学校へ行けた。竹は海苔ヒビ用にたくさんあったので、それを適当な長さに切って、鼻緒をつけてよくスケート遊びに興じたものである。
 三年、四年の時の担任は師範学校を出てまもない、若い張りきったT先生であった。通学する方向別に生徒たちのグループがしぜんにできていたが、先生はそのグループの系列といったものをよく知っており、悪さをするとグループ全員を公平に叱った。
 当番が決められていて、放課後に教室の掃除をする。終わると先生が見回りにこられ、点検を終えたら帰れるのであった。見回りのあいだは、皆、神妙にしていたものである。たまに先生の仕事が忙しく、あとで点検しておくから帰っていいと言われると、皆喜んだ。でも先生は子どもの心理をよくとらえられており、一目散に帰っていこうとする生徒に「そのかわりきちんと後始末をしておくように」とクギをさすのを忘れない。ばか正直な私は教室に帰って雑巾をすすいだ。そんなとき、先生が点検にこられることもあった。先生がすすぐのを手伝ってくれる。二人だけの教室で私は教師の体温をじかに感じつつ、すべてにけじめをつけることを、無言のうちに教わった。
 二年間ほど病床にあった父が、私が四年生の時、ようやく回復へと向かった。一家そろって健在で正月を迎えた喜び。子ども心にも、久しぶりの春の訪れを知ったものである。父が病床から離れ健康を取り戻しつつあることだけで、暗かった家の空気は一変して、うれしい正月だった。私はいつも多くの人びとの苦悩や喜びと接しているが、病気の家族をもつ人のつらさはよく理解することができる。
 しかし……春はうたかたであった。長兄・喜一が昭和十二年に出征した。後年、ビルマ(現ミャンマー)で戦死した兄である。軍靴の音は確実にしのびよってきた。小学校でも時代を反映して少年団が結成され、カシの棒を持って行進したりして皇民化教育に力がはいっていった。天皇の臣民であることが徹底して植えつけられていったのは、周知のとおりである。
 私にとって長兄の思い出は鮮明である。それは故人ゆえでもあろうが、くったくのない明るさに魅かれた。家運が傾き中学を中退せざるをえなくなったのだが、表情は暗くなかった。
 冬の夜、暖房も思うようにとれず、ふとんの中でちぢこまっている弟たちのところへ来て、長兄は「さあ! いくぞ」と言っては、ふとんの上にのって押えこんだり、転がしたりして、体をしぜんのうちに暖かくしてくれた。ハーモニカを吹くのが上手で、にぎやかで明るい音色に心をはずませもした。
 父に似て強情なところもあり、私たちが夢中で遊び回ったあと家に帰ると、かならず土間の上がり口で、兄に足裏の検査をされた。一人ずつ足の裏を見せ、汚れていると「洗ってこい」と言う。庭に出て足をごしごし洗い、もう一度見せる。すると上がってよいとの“許可”が出るのである。
 父はとにかく清潔を重んじた。障子の桟を人差し指の腹でさっとなで、ほこりがつくと掃除が行き届いていないと叱った。ガラスは年中ピカピカに磨きあげておく。いまのような洗剤などはなかったころである。近所の豆腐屋からおからを毎日届けてもらい、それで磨く。「豆腐屋とどっちが勝つか」と冗談を言いながら、これを三年間つづけた。どうやら父の強情さが勝ったらしい。そんなわけで私も清潔でないと落ち着かない。
 ともかく長兄は出征した。時代は戦争へと動いていた。兄という働き手を失い、生活はますます窮していくことになる。五年生の時、わが家は広々とした屋敷を人手に渡し、糀谷二丁目へ移転した。引っ越した家は壁がまだ乾いておらず、家具を入れることができなかった。やがて次々と兄たちが兵隊にとられていき、春は遠のく一方となった。

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