Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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庭ざくろ  

1975.2.4 「随筆 人間革命」「私の履歴書」「つれずれ随想」(池田大作全集第…

前後
 
1  近ごろは、ざくろは食用としてより園芸用として庭木などに使われるようになった。だが、私は、あのはじけた実を割り、中身を口にほおばって種子をよりわけながら味わった、あのほのかな甘ずっぱさが好きである。
 二歳になって間もなく入新井から糀谷三丁目に移転した。広々とした屋敷内に、そのざくろの木が一本あった。幹には、こぶがあって、なめらかな葉を茂らせる。梅雨のころにだいだい色をおびた赤い花を咲かせると、光沢ある緑のなかで美しかった。黄赤色に熟して厚い果皮が割れるのが楽しみで、秋になるとよく木に登って、もいだ。透明な淡い紅色の種子が懐かしい。
 尋常小学校へ入学する前であった。私は突然、高熱を出し寝こんだ。肺炎であった。熱にうなされたことと、医者がきて注射を打ってもらったことを、鮮明に覚えている。ようやく小康を取り戻したころ、母は言ったものである。
 「あの庭のざくろをごらん。潮風と砂地には弱いというのに花を咲かせ、毎年、実をつける。おまえもいまは弱くとも、きっと丈夫になるんだよ」。当時の家は海のすぐ近くで、歩いても十分とかからなかった。ざくろはそんな砂地にしっかり根を張っていた。
 人は人生のなかのいくつかの出来事を、仔細にそのときの色調までをも、まるで絵のように覚えているものである。そんな光景には概して自分の生き方なり、来し方なりが密接にかかわっているものである。若年の大半を病弱に悩まされつづけた私は、このときのことを忘れられない。
 青少年時代の私の脳裏から、人間の生死の問題がいつも去ることがなかったのは、やはり一貫して健康にすぐれなかったことと関係しているようだ。寝汗をびっしょりかいて、うなされながら“人間は死んだらどうなるんだろう”などと、いま思えばたわいないが、少年らしい青くささで考えたのは、小学生のころであった。
 昭和九年に羽田の第二尋常小学校へ入学した。一年生の国語の冒頭の句は「サイタ サイタ サクラガ サイタ」であった。この章句は懐かしい。糀谷三丁目の屋敷は広く、カエデやケヤキなどとともに、一本の桜の木があった。こうした少年の日の桜への憧憬が、後年、日蓮正宗総本山に桜を大規模に植樹したことへとつながっていったことは確かである。
 入学したころ、私はご多分にもれず腕白であった。背は低くクラスでも前から数えたほうが早かったけれど、遊ぶときは負けていなかった。成績は中位であり、いたって平凡な少年であった。特徴らしいものはなにもなかった。
 このころまでさしたる不自由もない少年時代を送ってきたのであったが、二年生の時に父がリューマチで病床に臥し、寝たきりとなった。海苔製造業で一番の男手を失うことは致命的である。縮小せざるをえなくなり、使用していた人もやめていった。
 援助を頑として拒む父と、育ち盛りの多くの子どものあいだで、母の苦労は並たいていではなかったと思う。「他人に迷惑をかけると、お前たちが大きくなってから頭があがらなくなるぞ。塩をなめても援助を受けるな!」と強情な父は口ぐせのように言った。理屈はそうでも、生活は窮しに窮した。母は努めて明るく「うちは貧乏の横綱だ」と言っていた。
 学校に通う駒下駄の鼻緒を買えずに、母がいつも編んでくれた。叔母が来て父のためのタバコを二、三箱、そっと置いていってくれたらしい。長兄の喜一はせっかくはいった中学校をやめ、リヤカーを引いて野菜をいまの武蔵小杉に仕入れに行き、売って歩いた。私もたまに日曜などには、リヤカーの後押しをして手伝ったものである。坂道を押すときのたいへんだったことを思い出す。
 そんな折、見舞いに来た親類の人が、百円札を父に内緒に、といって病床の枕もとに置いていったという。死ぬまで父はそのことを知らなかったようだ。後年、義理堅い母はその人のことを私に初めて聞かせた。会長になってから二年後であった。私は即刻、時間を見つけてお礼を申し述べに、その人の家へうかがった。申し訳なかったが、約三十年たってからの感謝の辞となったしだいである。

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