Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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海苔漁  

1975.2.3 「随筆 人間革命」「私の履歴書」「つれずれ随想」(池田大作全集第…

前後
 
1  海苔を採る最盛期は、朝食が午前二時ごろ、昼食が午前十時ごろ、夕食が午後五時ごろで、昼食と夕食のあいだにコジハンと呼んだ間食をとった。前にもふれたように、母などは「昼ご飯など食べる暇がなかった」と言っていた。子どもの私には、母が昼食をいつも抜いていたとは気がつかなかったが、ともかく、忙しさでいっぱいであったことは記憶している。これは、なにも私の母だけが特別といったものではなく、どこの主婦も同じように働かねばならなかったからだ。だいたい「海苔の採取の時期に、海苔漁家の主婦がゆっくりと昼の食事などを食べていては、決して良質の海苔は生まれない」とも言われていたくらいである。
 私が物心つくようになってからは、池田家にとっても、また母にとっても最も逆境の時代であったが、それ以前には、付近でも屈指の規模で海苔漁をやっていたと聞く。関東大震災のころを境にわが家は、徐々に没落していったらしいが、決定的にしたのは父の病気であった。母は古市場(現在の大田区)のかなり大きな農家の娘で、大正四年(一九一五年)に父と結婚。大震災が大正十二年であるから、母は家計的には、結婚後しばらくして、坂道をどこまでも転がっていくような按配になったわけである。七十九歳になった母は「わたしゃあ、楽しかったよ」と笑っているが、いつも達者で貧しさなどにはくじけなかった強い女性であった。
 父は男三人、女五人の兄弟で、次男坊。父の兄弟は協力して海苔採りをやっていた。そして池田本家の跡目は長男の百太郎といった。漁期には、毎年、千葉や山形からシオトリ(男の雇い人)が二、三十人、ホシッカエシ(女の雇い人)が七、八人手伝いに来ていたという。そのころ、一軒の家にくる手伝いの人々の数は、平均して一、二人ということだったから、きわめて盛大にやっていたことがわかる。「ご飯のおひつも、車をつけて転がしたもんだ。人数が多いんで、そうして飯を盛らないと間に合わなかった」とも耳にした。母に言わせると、父の兄弟は「新しもの好き」となるが、海苔の採取にしても、なんやかやと新しい工夫をしていったようだ。
 大きな海苔の乾燥場も、先駆けて建てたりした。大正七年に「高幡丸」という機械船の進水式を行ったが、この動力船を使うということも、付近では最も早かったそうだ。幅一丈近く(約三メートル)、長さ十間ぐらい(約十八メートル)のこの動力船に竹ヒビを満載して、東京湾を横断し、対岸の千葉県の五井、姉崎、浦安などの海岸に海苔の移植に行くのである。これらは、養老川や江戸川の河口にあり、良い海苔が採れた。
 海苔の移植が始まったのは六十年ぐらい前ということだが、千葉県側の海岸のほうが、海苔の芽の生育が早いため、房総の浜辺のタネバ(種場)にヒビを立てるようになったわけである。ヒビに海苔の胞子が付くと、不入斗の海岸に持ち帰って育てた。このように、いわば、海苔を一時“里っ子”に出すような方法をとると、約一カ月も早く海苔が採れ、漁期も長くなり、しかも“早海苔”の出荷は高い値段でさばけたため、移植は好評を呼んだようだ。海苔は、海の水と川の水が適度に混じりあい、潮の流れが強いところによく育つ。東京湾でいわゆる浅草海苔が、本格的に採取されるようになったのは約三百年ほど前ということであるが、それも、東京湾に多摩川、隅田川、荒川、中川、江戸川などが流れ込み、海苔の発育に適した状態が生まれたのがゆえんという。
 池田の家の海苔業は繁盛し、東京湾で大規模に魚をとる分野にも手を伸ばしていった。広島から何十人と漁師を採用し、二隻の動力船で網を引っ張り、大量に魚を捕獲する漁法を工夫していたとのこと。さらに、明治の祖父の代から始まっていた北海道の釧路付近の開拓事業も大規模にやっていた。私の父も、北海道には、よく行っていた。
 しかし、このようなかなり大規模な事業も、関東大震災を機に、決定的な打撃をこうむり、また、魚をとるほうもうまくいかず、困難な事態になっていった。『東京府大正震災誌』(東京府編、大正十四年刊)によれば「海岸及海底は約二尺(注・約六〇㌢㍍)沈下し準備中の篊にては短かく篊建頗る困難を感じつゝあり」「悪潮の為め沿岸魚貝概ね斃死したり」と、不入斗、羽田、糀谷、大森などの海岸地帯がほとんど崩壊し、海苔漁業者にも甚大な被害を与えたことがわかる。大規模にやっていればいるほど、その被害状況も、立ち上がり不可能なほどになっていったにちがいない。

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