Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

江戸っ子  

1975.2.2 「随筆 人間革命」「私の履歴書」「つれずれ随想」(池田大作全集第…

前後
 
1  親子三代つづけば、完全な“江戸っ子”といわれる。神田生まれの神田育ちでなければ、江戸っ子とは認めない、という強硬論もあるようだが、“神田”を“東京”全体にまで広げるならば、私も純粋な江戸っ子といえよう。
 江戸時代から、大森の海岸で海苔を採りつづけてきたという漁師の家に生まれたので、私は、土地っ子のご多分にもれず「ヒビ」を訛って「シビ」と発音してしまう。どうしても「ヒ」が「シ」に変化してしまうのだ。これは、いまでもなかなか直らない。
 ヒビとは、海苔の養殖で、胞子を付着させ育てるために海中に立てる竹や木の枝のことである。この竹ヒビなどは、九州や新潟などから船や貨車で取り寄せていたようだ。毎年、九月も半ばになると、木犀の花が咲き乱れ、それが合図でもあるかのように、ヒビを海中に立てるヒビタテの作業が盛んになるのであった。それゆえ、木犀の花は、ヒビタテバナと呼ばれていた。
 この花が散ると、“アキニシ”といって、秋には西風がよく吹いてくる。この風が海辺の村や町を訪れ、やがて一月、二月、“ナライ”と呼ばれる北風が吹く。この厳寒の季節は、海苔採取という栽培漁業を営むわが家にとって、最も忙しい。「正月を休むようなら海苔シケ」といって、その年は不作ということを意味したくらいであるから、その忙殺作業のほどがわかるというものだ。
 だが、幼い日、正月になると、私は、羽田の海岸の砂浜に出て、凧あげに夢中になった。晴れ着をきた少年たちが、手に手に凧の糸を握り、空には、大凧、中凧、小凧、うなり凧などが色とりどりに浮かぶ。凧を風にのせようと心を砕き、砂浜を走り、止まり、また駆ける。天高く舞い上がって微笑む凧。しっかりと握った糸をちょいと引っ張ると、凧は、首を振ってあいさつをしてくれた。緊張した糸を絆に凧との対話はつづく。やがて夕日は西に落ち、金波、銀波に輝いていた海も、夕暮れのなかに眠り始める。糸を巻くのを惜しみながら、私はわが凧を抱きかかえ、家路につくのであった。
 汗をびっしょりかき、海風を紅潮した頬に感じながら海岸べりを歩くのは快い。「ただいま!」と庭の奥に呼びかけると、作業の手を休めないで「お帰り……」といつも優しく迎えてくれる母の笑顔は好きだった。
 母は快活で、めったに怒ることなどなかった。友だちを連れてきて、庭の海苔干し場で暴れることもあったが、母は私たちの好きなようにさせていた。「お母さんは、優しいんだなあ」と友だちが感心してつぶやいていたことを覚えている。
 母は、いつも働いていた。休むことがなかった。“強情さま”と呼ばれる頑固一徹な夫に、懸命につかえた。男七人、女一人という八人の子を抱え、そのうえ親類の子を二人ひきとり、家事だけでたいへんなところに、海苔屋という家業である。男と同じように女も働く──これが、海苔屋の主婦の生活であった。翌朝の起床の時間は、海苔を採る量、潮の干満の具合で決まった。だいたい、午前二時、三時である。海に出る前に朝食をとらねばならない。そのため、母は、皆より早く、一時、二時に起きる必要があった。夜、潮が引くときは、ヨバマ(夜浜)といって、石油のカンテラを持って海に出、海苔を採取した。こんなときは、午前零時か一時ごろ、帰ってきて夜を徹して海苔つけをしなければならない。
 寒風のなか、ベカと呼ばれる一人乗りの“海苔採り小舟”に乗って、凍りつくような海水のなかに手を入れて、ヒビに付いた海苔を採るのはつらい。木綿の半纏を防寒用に刺し子にし、裏にフランネルをつけたボウタという上っ張りを着ているものの、冬の海の、しかも太陽が昇る前の海の仕事は、まさにあかぎれを作りに行くようなものといえよう。
 早朝に採った海苔は、その日のうちになるべく早く海苔つけをし、干し上げないと味と質の良いものにならない。普通の人びとが暖かいふとんのなかでぐっすりと休んでいるとき、海苔を作る作業は、フル回転でつづけられていくのであった。私はよく「因果な仕事」と思った。
 私は、少年の日、早朝に起きて、この海苔製造の作業を手伝ったことがあるので、その寒さとつらさは身にしみてこたえている。母は「“起きる時間ですよ”と一言声をかけると“ハイ!”と返事をして、すぐ起きた」と私をほめてくれていたが、私は寝起きは良いほうだったのであろう。

1
1