Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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強情さま  

1975.2.1 「随筆 人間革命」「私の履歴書」「つれずれ随想」(池田大作全集第…

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1  私の履歴書はいたって平凡である。最近、羽田の東京国際空港の世話になることがひんぱんになったが、大森ちかくの高速道路を通るたびに、きまって幼いころのことが一瞬に頭に浮かんで消えるのである。なにしろ生まれ故郷のことだ。いまは昔とすっかり変わってしまったが、それでも昔の俤の痕跡がまったくなくなったわけではない。私はいまの東京・大田区の入新井に昭和三年(一九二八年)正月二日、海苔屋の伜として生まれ、幼時を糀谷で過ごした。
 私の幼いころは、浜の潮風が野面を渡り、その野原のあちこちに、海苔製造業の家々が散在していた。海岸から沖へかけて、海苔の竹ヒビ(篊)が均等な間隔で美しい模様を見せながら遠く広がっていた。四季折々の花が咲く野原と波が打ち寄せる砂浜は、私たちの格好の遊び場で、赤トンボが姿を消す秋の終わりごろには、澄んだ空の下で銀色の薄の波がさわさわと揺れていた。そのころ右手にあった羽田飛行場は、のんびりしていて、練習機がときたまプロペラを鳴らしていた。
 かつて大森一帯が、浅草海苔の製造で全国一の覇を唱えたことなど、いまは昔話になってしまったが、今日のように家が密集し、町工場がひしめき始めたのは、昭和も数年すぎて、日本が第二次大戦への道に傾斜したころからのようである。今日の工業地帯が現出する前は、大森海岸の一帯は漁村のたたずまいで、空にはスモッグもなく、海は透明で青かった。
 子年生まれの父は、名を子之吉といい、母は一で、私はその五男である。妙なことだが、生まれてすぐ私は捨て子にされた。私の生まれた昭和三年に、父は四十一歳で、ちょうど前厄の年に当たっていた。それで厄よけの迷信的風習から、私はとんだ目にあった。もっとも捨てた途端に、拾う人もあらかじめ決めていて、そんな手はずになっていた。
 ところが知人が拾う前に、だれかが拾って駐在所に届けてしまったから、一時は大騒ぎになった。消えた嬰児に、父母は大あわてにあわてたらしい。この話はよく聞かされたが、迷信はともかくとして、父母の心情には私が丈夫に育ってほしいという祈願がこめられていたのだろう。
 父は一言でいえば、頑固な人であった。十八年前に亡くなったが、生前、近所の人びとから“強情さま”と呼ばれていた。それで、私たちも「強情さまの子だな」で通ったものである。頑固の裏に、ばか正直な生一本さが貫かれていて、結局は人の好い父であった。
 この頑固さは、先祖伝来の気質であったらしい。江戸時代の後期、天保の大飢饉の時(一八三六年)、打ちつづく天候異変から全国的な凶作となり、農民の餓死が各地で起こった。この惨状に、幕府は救助米を放出した。ところが、村の池田の祖先は「もらう筋合いはない。草を食べてもなんとか生きていける。他の人に回してくれ」と言って、頑として救助米を受け取らなかったという。この話は、後でいろいろ粉飾されているとは思うが、このとき以来、村人たちは“強情さま”という名を奉った。父もこの子孫である。
 また、六尺のかつぎ棒があったというが、この棒は、何代か前の当主が、品川から不入斗(後に新井宿村と不入斗村が合併して、入新井町になった)まで、「もし運んだら、米二俵やる」との話を真に受けて、下駄ばきのまま五キロの道をウンウンうなりながら帰ったという、そのかつぎ棒である。強情の血筋は、代々みがきがかかったらしい。
 この強情の父に、母はよく仕えた。海苔の仕事は手間暇のおそろしくかかる仕事である。朝早くから海苔採り、日中は海苔干し、それに炊事と育児、最盛期の秋から冬にかけては、昼食など忘れたとのことだ。手はいつもあかぎれができていて、五十過ぎるともう白髪が目立つ母であった。
 昭和にはいってからの父や母は、二・二六事件、日中戦争、第二次世界大戦、終戦へとつづく激動期に、いつも戦争の影を背負わされて、思いまかせぬ人生を、精いっぱい耐えて生きたことは確かである。平凡ではあったとしても、善良な庶民の誇りを、私は愛惜したい。
 いまはすっかり年老いて七十九歳になる母は、病弱だった私を気づかって、会えば「体だけは丈夫にね」としか言わない。母はいつまでたっても母である。

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