Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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序文  

「随筆 人間革命」「私の履歴書」「つれずれ随想」(池田大作全集第22巻)

前後
1  「日本経済新聞」から「私の履歴書」の執筆を依頼されたのは、たしか昭和四十九年(一九七四年)十月のことであった。じつはそれ以前にも、二、三年前から何回か執筆を求められていた。昭和生まれの私は、いまだ人に語るべき人生は、履んでいないと思っている。そのたびに私は謙遜でなく固辞したのだが、お断りばかりもできなくなって、お受けしたしだいである。
 幾年の秋霜をくぐり抜けてきた人の歩みには、有名であれ無名であれ、おのずといぶし銀のような重厚な光沢があるものである。そんな人生の達人ともいうべき深い味わいのある多くの年配の方に出会うたびに、私は、──いま、ここにたしかな人がいるという、尊貴な姿にもまして、今日にいたるまでの、忍耐強い、したたかな歩みと、人生のたしかさを感ずるのである。そして日々の哀歓の彼岸に、よし平凡であろうが、なによりも精いっぱい、人生を生き抜いた崇高な事実に対して、ふつふつと沸き上がる敬愛の念を禁じえないのがつねだ。
 四十七歳と、ようやく半世紀に達しようとしている若い私にとって、人生はいよいよこれからが正念場である。最後の稿にも書いたように、今後もありのままに、虚栄を張る必要もなく、背伸びすることもなく、自分らしい履歴書を仕上げていく以外にない、と決めている。
 実際に筆をとる段になって、私は幼少のころから現在にいたるまで、陰に陽にお世話になった方々を想い返していた。あの方も、この方も……次々と懐かしく想いは巡った。私は回想のなかで、仏法でいう「一切衆生の恩」というものを、しみじみと実感した。
 社会人として生きているからには、当然のことであるが、だれもが多くの人間関係に支えられ、ほとんど無数といってよい人びとの恩恵をうけつつ暮らしている。いわば大海の浮力のようなものであろうか。一艘の小舟が進むにも、大海のすべてがそれを支えてくれているのである。
 現在の東京・大田区に海苔屋の伜として生まれ、今日まで人生を全うしてこられたのは、多くの市民、つまり衆生の恩にほかならない。私は、私の未来行動への“発心の言葉”として、かぎりない感謝と誓いをこめて一筆を進めた。
 人の一生には、他者には見えない奥行きをもった深層の部分があるように思われる。それが少年時代の過ぎし日々でもあったろう。私自身、本格的に自己をみがいたのは、仏法の道にはいってからであるが、少年の日の心の燃焼は生涯を貫くものにちがいない。そんな意味で、私という平凡な人間の輪郭をなした少年の日々を、多少とも克明に書かせていただいた。この部分は、いままでの私の著作のなかでも、わりとふれていなかった部分である。
 早いもので創価学会の会長に就任して、この五月三日で満十五年になる。十五年の日々は矢のように過ぎ去ったようでもあり、反面、非常に長く、苛烈な歳月のようにも思える。十九歳の夏、恩師・戸田城聖先生に師事して以来、人生の半分以上を、私は学会とともに、民衆とともに歩んだ。病弱に悩まされ、三十歳まで体がもたないのでは、と危惧しつつも、夢中で今日まできてしまったようである。
 創価学会の運動も、私の最終の事業である教育の仕事も、すべてが進展の一道程にすぎない。これで良いと満足もしていないし、やらねばならないことは、まだまだ多い。ともかく私は、生涯、私なりに進みゆくのみである。その意味から「私の履歴書」は“未完”である。
 卯月四月 桜開かんとする日  池田 大作

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