Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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妙法広布の強靭な糸  

1972.12.22 「随筆 人間革命」「私の履歴書」「つれずれ随想」(池田大作全…

前後
1  ある年の夏──。
 戸田先生を囲んでの会合で、青年部の首脳たちに、組織と運動についての指導があった。
 そのなかに、一人の幹部が落ち着きもなく、伏し目がちに聞いていた姿を見つけた先生は、烈火のように怒ったのである。
 「青年は、嘘つきであってはならない。狐のような目をして、すべてを騙していこうという態度ほど卑劣なものはない。最も憐れな青年だ。目がキョロキョロして、人の目をじっと見られないような青年は、やがてはかならず世間から見放され、いつかは不幸な孤独に陥っていくだろう」 没落しかかっていた、その青年は、そのときの一撃が胸深く突き刺さったのであろう──人間革命の新しい発見と、発心への決意が光り輝いていった。
 いまでは、多くの同志の尊敬の的となって、才能ある立派な指導者として、広布への最大の貢献と活躍をしている姿は、眩しいほどである。
 そのとき、先生は、ある穏健そうな青年には、こう指導し、激励しておられた。
 「閉ざされた青年であってはならない。水の信心というけれども、水も、時と条件によっては、沸騰することもあるのだ。革命児は、ただの平穏なゆっくりした生活を夢見るようでは、成長できなくなるだろう。昼間は汗みどろになって働き、戦い、勉強し、あるときは、岸辺に立って波と語らい、真夜中まで星を友にしていくような、理性と感情の融合した青年であってもらいたい。まあ、それもなかなかできないだろうが、ともかく、なにかで第一人者になるというだけの執念をもつことだ」と。
 また、先生が生活上で嫌いであったのは、理髪と風呂と仮縫いだった。英邁な額や襟首のほうまで、よく毛が垂れるように伸びていたことがある。髭はチョビ髭。ご自身で、ときたま鋏を使って切られていたことがある。ときには、旅行をしたときなど、伸一、鏡がなくとも角度でわかるんだよ、と笑いながら、髭を切っておられた光景が懐かしい。
 伸一も、戸田先生に見習ったわけではないけれども、いつしか嫌いになってしまったのは、理髪と、風呂と、仮縫いと、それと写真である。来年も、友のために、あちこちと記念撮影が決定されているが、勇を鼓して、出席する気持ちには変わりはない。わが友が少しでも喜んでくれれば、なんでもするのが私の使命であることを、自覚しているからである。
2  第一回の写真撮影は、昭和四十年(一九六五年)四月十六日、私の出身地である蒲田支部の地区部長会に出席したときであった。蒲田会館の三階の広間で、居合わせた青年部幹部の方々に、ぜひともと言われて──私の胸中も、只今臨終の心境の発露として、批判の嵐のなか、雄々しくも健気に宗教革命に戦う、同志の生涯の思い出にでもなればと、喜んで席に入らせていただいたのであった。
 ところが、一波が万波につながり、あの地でも、この地でも、ぜひともと強い要望の声が高まって、この数年、できうるかぎりの奔走を、余儀なくされてしまったしだいである。平等を考えなければならない伸一にとっては、嬉しい悲鳴となっていくことであろう。
 戸田先生が出獄なされたのが、四十五歳である。伸一も、早くも来春は、四十五歳を迎える年となった。同じ年齢であっても、先生の境涯、能力、確信等々は、幾百千倍もすぐれておられて、不肖の弟子は、ひたすら報恩謝徳の念で合掌の日々を送る以外にない。ただ、一貫する妙法広布の強靭な糸が、確たる事実の存在として連結、脈動していくことだけは間違いない。
 社会に雄飛して活躍する学生部出身の友らと、夕食をともにしながら、遅くまで語り合った。十年後、二十年後の広布の展開をひとり思うとき、そこにとうてい、想像もつかぬ新たなる燃焼のあることを知った。

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