Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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試練を越えてこそ……  

1972.2.6 「随筆 人間革命」「私の履歴書」「つれずれ随想」(池田大作全集第…

前後
1  昨夜遅くまで原稿執筆のため、八時過ぎに目が覚める。雪山坊の脇を流れる潤井川のせせらぎが、雨の降っている錯覚を起こさせた。
 今朝も、風もなき雲ひとつなき晴天。このせせらぎも、人の心によっては、方便品にも、寿量品の読経にも響き聞こえるかもしれない。
 大沢崩れの真下を起点とする、この潤井川の上流を飢渇川と呼ぶ。雨がなく、水のないときの川底は、火山灰の膚色をそのままにしてさらけだしている。やがて、地下水の流れを誘いこみながら、総本山の東側を通過して流れ去るときは、古来、御塔川と呼ばれ、さらに下流では潤井川となって、稔りの田園地帯にそそがれていく。
 燦々と室いっぱいに太陽の光を受けた雪山坊の、御本尊に向かって端座して、庶務の人たちと五座の勤行。朝食は、一週間にもちかい滞在のためか、坊の従業員の方々が、気をつかってくださり、皆でライスカレーをいただく。皆、親切なのでいつも感謝する。
 午前中は、昨日から執筆している“二十一世紀と仏法”と題する十六枚の原稿を、やっと仕上げる。ある宗教新聞社から依頼の、新年号掲載の原稿である。つづいて、連載の『人間革命』の“明暗”第五回分三枚半を書き上げた。ビキニ環礁の水爆実験で社会が騒然としているなか、久保山氏が亡くなった折、戸田先生は一言「可哀想なことをした。唱題だけはしてあげよう」ともらしたものだ──。疲れる。才能のない私にとっての執筆作業は、重労働であるからだ。
 庶務の責任者であるH君より、早朝より寒気のなか幾千人もの参詣者の進行、運営に走り廻っている若き輸送班に、記念として今回の原稿の写しを、差し上げてほしいといわれ、一任する。ともかく、係りの人が私の執筆にあたって、資料を丹念に集めてくれるので、まずまず安心。
2  午後一時過ぎより、聖教のM記者、G記者と同乗して周辺を視察。
 この数年間で、総本山を荘厳するために幾百回となく、廻りまわったことか。七百年目の開幕の夜明けにふさわしく、歳々、晴ればれと完備されていく様相には、だれもが目を見はることであろう。私の責務も一つひとつ、また一日一日、完遂していることに、歓喜の温りが生命の胸の内を包んでいく。
 白雪の化粧をした富士の山が、優しく悠然と、私たちに語りかけているようだ。三時過ぎには、正本堂にて、幾千の友とともに御開扉。つづいて代表者と記念撮影。この顔も、あの顔も、安穏の楽しみの姿。私にとって、これほど嬉しいことはない。未来の広布を担い託する記者らとさまざまな話をしながら下山。途中、疲れたのか車中でよく眠る。
 ある年、ある日。戸田城聖と山本伸一は、総本山より二人して下山したことがあった。すでに戸田先生の足は弱りはじめており、やっとタクシーをつかまえて、幾時間もかかっての帰宅である。
 その車中での、先生の太い息をはきながらの一言が、伸一の脳裏より離れない。
 「伸一、学会はどこにも味方がない。しかし、広宣流布をしなければ日蓮大聖人は歎かれる。広布の道とは、嶮しい山を毎日歩むようなものだ。未聞の偉業だもの。いや増して、想像もつかぬ留難も多くなるだろう。幾度となく、その難を乗り越えなければ広布はできないのだ。悲しいとき、悔しいときもかならずあるだろう。しかし、この試練をへなければ本格派の革命児にはなれないし、この信念の闘争がなければ、広布はできないのだよ。頑張れるか──」と。

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