Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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恩師の指導ノート  

1971.5.19 「随筆 人間革命」「私の履歴書」「つれずれ随想」(池田大作全集…

前後
1  戸田城聖は、座談の達人であり、対話の名人であった。
 さまざまな指導のなかで、じつに蘊蓄のある社会の真理を述べておられた。私どもは、さりげなく聞き流していることが多かったが、歳月をへてみると、その人生経験の縮図ともいうべき、指導原理が切実によみがえってくるのである。
 当時の指導のいくつかを、断片的ではあるが、ノート(理論誌『第三文明』に掲載したこともある)より、抜粋して述べさせていただく。
 この多くは、水滸会(当時の青年部の代表的教育機関。最初、中国の歴史物語『水滸伝』を中心に会合がもたれたので、この名前がつけられた)での話である。
 青年は、望みが大き過ぎるくらいで、ちょうどよいのだ。この人生で実現できるのは、自分の考えの何分の一かだ。初めから、望みが小さいようでは、なにもできないで終わる。
 大事業は、二十代、三十代でやる決意が大切だ。四十代に入ってから“さあ、やろう”と言っても、決してできるものではない。
 卒に将たるは易く、将に将たるは難しだ。しかし、学会の青年は、将に将たるの器にならなければならない。
 秀吉は、草履取りをしているとき“天下を取るのだ”という、野望をもっていたかどうか。あとから、人びとがいろいろ言うけれども、本当のところは、わからない。だが、彼は薪奉行を命じられたら、日本一の薪奉行になった。これは、じつに青年らしい生き方だ。秀吉は草履取りをしていたときも、ただの草履取り以上のことを考え、大望をもっていたことは事実であろう。
 瀬戸内海の鯛というものは、内海で生まれ、玄界灘の荒波にもまれて育ち、再び瀬戸内海に帰ってくる。したがって、玄界灘の激しい潮流にもまれるので、肉がしまり、骨がかたくなって、おいしい。青年も、このように世の荒波にもまれてこそ、すぐれた人物に成長できるのである。
2  「先生」というのは、先に生まれたから、そういうのだ。「後生畏るべし」という言葉がある。君たちは「後生」なのだから、先生より偉くなれ。
 どのような癖のある馬でも、また名馬でも、使う人によって変えられていくし、また変わってくるものである。ゆえに師は選ばなくてはならない。
 大学を出ても、なにを習ったか忘れてしまう。残っているものは、大綱だけで精いっぱいである。社会に出たら、あらゆる生きた学問を学んでいきなさい。
 人間の本当の値打ちというものは、全部の肩書をはずしたあとの、裸の人間の、真の姿に偉さがなくてはいけない。
 よく婦人には、主人を勤めに送り出すとき、どのようにいやなことがあっても、玄関で見送るときだけは、笑顔で気持ちよく送ってあげよ──と言われていた。単純な行動のなかに、一日中の快活と悲劇の、たしかに分かれ道がある。
 また、あるとき、一人の婦人から投書が届いた。いままでたいへんお世話になっていた幹部に対する、激しい批判である。戸田は厳しい口調で言った。「自分の都合のよいときだけ幹部に付き、ちょっとでも、自分に都合が悪くなると、すぐ幹部を誹謗するなんてよくない根性だ。意見ならまだしも、だいたい、この種の投書は信心もなく、感情と策の人が多いから、紛動されずに公正に見抜くように」と。
 今夜も本部の勤行会。執筆の合間をみて、聖教新聞社で、若き男女の人びとと対話できるのが、なによりも愉しい。勇健な友に、清爽な友に、かぎりなき栄光あれと祈る。

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