Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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「一冊の御書」に学ぶ  

1971.3.12 「随筆 人間革命」「私の履歴書」「つれずれ随想」(池田大作全集…

前後
1  昭和二十六年(一九五一年)初秋のある日、戸田城聖のもとに分厚い一冊の古い本が届いた。牧口初代会長が獄中で使用していた、日蓮大聖人の御書である。
 この一冊の御書は、廻り廻って、やっと、不思議にも戸田城聖の手に戻ったものである。日宗社発売の霊艮閣版で、二千五百五十四頁、横十・七糎、縦十五糎の『日蓮聖人御遺文』である。
 戦後の学会再建期には、正宗発刊の御書もなく、学会の多くの教学陣も、これと同じものを所持していた。
 戸田城聖は眼鏡をはずし、御書に顔を押しつけるようにして、頁をペラペラめくりながら散読していた。その時期は、ちょうど、立宗七百年の式典を翌年に控え、日蓮正宗第五十九世日亨上人を中心に、戸田城聖の発願として、『新編日蓮大聖人御書全集』(創価学会版)の発刊に心血を注いでいた矢先である。「牧口先生は、われわれの御書の発刊を見守ってくださっているのだ」と、深い決意をただよわせるなかの、師弟というものを貫く一言であった。
 側にいた伸一も、その御書を見せていただいた。なにかしら深固幽遠の念いにかられつつ、頁を開いた。幾行かに赤線が引かれている。上段の余白には、達筆な万年筆で、御金言の解釈であろうか、細字の数行が加えられていたのが印象に残った。
 戸田城聖は考えに耽りながら、私に話してくれた。
 「獄中でも、先生がよく御書を勉強しておられたことがわかるよ。とくに座談会では、佐渡御書を引かれ、最後にアッハハ……と、よく笑われておられたなあ。その一節は、伸一ここだよ。赤線が太く引いてあるだろう」
 これはさてをきぬ日蓮を信ずるやうなりし者どもが日蓮がかくなれば疑ををこして法華経をすつるのみならずかへりて日蓮を教訓して我賢しと思はん僻人等が念仏者よりも久く阿鼻地獄にあらん事不便とも申す計りなし、修羅が仏は十八界我は十九界と云ひ外道が云く仏は一究竟道我は九十五究竟道と云いしが如く日蓮御房は師匠にておはせども余にこはし我等はやはらかに法華経を弘むべしと云んは螢火が日月をわらひ蟻塚が華山を下し井江が河海をあなづり烏鵲が鸞鳳をわらふなるべしわらふなるべし。
2  戸田城聖の微笑が、伸一の瞳に素早く入った。戸田城聖の博学は有名である。とくに御書の拝読の鋭さは、完璧であったことはいうまでもない。「立正安国論」「開目抄」「観心本尊抄」「文段」「六巻抄」「御義口伝」等々、その悟達の境涯よりの講義を拝するたびに、世界一の大学者であったことを、私は信ずる。そのなかにあって、入信まもなく、初めて出席した総会(東京・神田の教育会館)での「開目抄 下」の一節の講演が、私の耳朶を劈いたことがいまもって忘れられない。
 詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん、(中略)善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし、大願を立てん日本国の位をゆづらむ、法華経をすてて観経等について後生をごせよ、父母の頚を刎ん念仏申さずば、なんどの種種の大難・出来すとも智者に我義やぶられずば用いじとなり、其の外の大難・風の前の塵なるべし、我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず。
 そのときの伸一の全生命には、大風と津波が、一時に襲いかかったような感動が巻き起こった。しかしやがて、新生の静寂な大地と、太陽光線が描き出されていった。
 一日中曇天。雨が降るかなと思ったが、降らなかった。少々、身体がだるい。二階の夜の書斎は、膝掛けがないと寒い。執筆の合間に、横になりながらスタンダールのこんな言葉を思い出した。
 “自分の本当の性格を生かせない人間は、だれでも自分の力を出しきれない”
 時計を見たら、夜半の一時をいつのまにか過ぎていた。

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