Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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偉大で強靭な絆  

1971.3.2 「随筆 人間革命」「私の履歴書」「つれずれ随想」(池田大作全集第…

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1  戸田城聖が、牧口常三郎のことを回顧するときは、心底より懐かしそうであり、厳しかった。戦後初めての法要を兼ねた会合が、杉並の歓喜寮で営まれた。その追悼講演のときである。
 彼は泣き、かつ激憤しながら話を進めた。一人の青年に背負われて、寂しく死して出獄した牧口先生の模様を語りつつ鋭く叫んだ。……先生の薫陶を受けながら、時の権力者を恐れて、かかわりのないように去っていった、卑怯な同志を詰るのであった。悔しかったのであろう。
 昭和二十五年(一九五〇年)十一月十二日、東京・神田の教育会館でなされた七回忌法要のときも同じであった。彼は幾たびも泣いていた。号泣に近い。その深い心は、弟子たちにはわからないようであった。生涯にわたって彼は、獅子のごとく剛毅であった。信仰のうえからの信念はもとより、明治の良き気骨のある性格でもあった。しかし、ひとたび牧口先生のことになると、真剣を抜く姿勢をとられたのである。あるときは、胸奥より涙し、あるときは、秋霜のごとく厳しく論じ、あるときは、修羅のごとく憤り、獄死した恩師を偲び、護り抜いてこられた。晩年、側にいた私どもには「先生がいないと寂しい。牧口先生のもとに還りたい」と、よく言われたりしていた。
 私は、そのたびに電流に打たれる思いであった。仏法に結ぶ師弟というものが、かくも崇高にして尊く、偉大で強靭なる永遠の絆をもって連結されているものなのか、と。まさしく、生死は不二であり、師弟は不二であることを、色読するのみである。
2  人の心というものは、時間と空間が過ぎゆくと、いつしか、薄れていくものである。名声と利害とのために結ばれた師弟の姿は、世間にはいくらでもあろう。一時的に、利用と打算とにつながる師弟の道はいくらでもある。それらは苦節の山に登れば、師も弟子もともに別れていく。牧口先生と戸田先生の師弟道は、瞬時、生涯の苦闘であり、さらに獄中に花開き、恩師の逝去によって、その真髄を結実していかれたのである。 戸田城聖が、決然と、師の遺志をはたさんと、権力の魔に挑戦したのは──獄中、牧口常三郎の死を、予審判事より聞かされたときからと想像できる。妙法の巌窟王である。まさに“一人の人間の、真の偉力は、死と生の間一髪、地獄の千仭へ、半身堕ちかけた時、猛然と奮い起ってくるものである”という、吉川英治氏の一言が思い出される。
 戸田城聖の指導は峻厳であった。惰弱を許さなかった。その不退の求道心で師に仕えたのであろう。戦時中の弾圧のとき、多くの同志は鼠のごとく右往左往した。さらに、牧口先生を誹謗し憎んだという。戸田城聖は「法のため、牧口先生は、私を獄中までもお供させてくださった」と感謝していた。
3  二月二十五日は、戸田先生の郷里・北海道の“雪の文化祭”。雪像の芸術作品には圧倒された。見入る市民は、だれもが称賛。あくる日、日本晴れのテイネオリンピアでの、壮大なるスキーのマスゲームにも絶賛の拍手を送る。新時代の文化に先駆する北海道。だれびとが見ても日本一であったろう。
 東北の文化祭も見事であった。郷土色鮮やかに大成功の乱舞であった。東北も大盤石。陰の人もただただ、ご苦労さまでしたと申し上げたい。
 雪山坊の時計が夜の八時三十分を告げる。潤井川の流れのせせらぎが、この室に抒情の響きとなって聞こえてくる。

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