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日蓮大聖人・池田大作

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通説と真実の距離  

1971.2.17 「随筆 人間革命」「私の履歴書」「つれずれ随想」(池田大作全集…

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1  今年(一九七一年)の六月六日は、牧口常三郎先生の生誕百年である。わが創価学会の創始者として、その功を記念した胸像もできあがり、この日には除幕式を行いたい。
 私はこのさい、牧口先生の正確な足跡を知る必要性を感じ、いくつかの調査を進めてきた。これはその一つである。昭和十八年七月六日の逮捕の瞬間を確認すべく努力した。通説では当時、先生は伊豆方面の指導に行かれ、蓮台寺温泉の、ある旅館で逮捕されたと信じられていた。地元の人びとも、私も長年のあいだそう思っていた。
 蓮台寺にあったという、その旅館は戦後に焼失していずこにもない。なおも調査を依頼した。すると、その旅館の盲目の女主人が町はずれに住んでいて、健在であることがわかった。しめたとばかり、女主人を尋ねるよう指示。女主人は、記憶はじつに鮮明のようである。
 「じつに立派な先生でした。家には何度もお泊まりになってくださいました」
 「ところで、先生がお宅で逮捕されたときのことを、お話しくださいませんか」
 「逮捕?」
 「刑事が踏みこんできたでしょう」
 「いいえ、そんなことはありません。そんな喧嘩のようなことをする先生では、絶対にありませんでした」
 女主人は、言下に否定。
 ここで私は、通説に疑いをもったのである。なにがなにやらわからなくなってしまった。通説と真実の距離の探究。ここにこそ真実の歴史は残される。
 伊豆指導の際、牧口先生には二人の婦人が東京から随行していた。I女とK女である。早速、問い合わせてみると、二人はたしかに蓮台寺にお供し、その夜はそこで座談会が開かれたが、翌日には下田におもむいて座談会を開いたのだという。二人はこの日、それぞれ近在の実家に向かった。
 K女の実家は須崎にあった。牧口先生は、そこからの広大な太平洋の眺望を、ことのほか愛していたという。幾たびか、一家をあげて先生をお迎えしたこともあると語る。
 七月五日、牧口先生はバスで須崎にK女の実家を訪れている。先生はこの日、須崎で過ごされた。そして翌六日の朝、いきなり司直の手がのびたのである。時に七十二歳。その後のことは小説『人間革命』に書いたとおりである。
 なお、牧口先生の死しての出獄の模様も調べてもらった。終戦のドサクサの折、多くの書類は散失。それでも出所記録を見ると、先生の名前があり、その下に「保釈出所」とだけ書かれていた。先生の死については、なぜか隠されていた。真相の究明ということは、よほどの情熱を傾けないかぎり、まことに至難であるということを私は知った。
 朝の七時ごろ──毎日、「聖教新聞」がわが家に届く。どのような人が配ってくださるのか……。いかなる執筆をしても、配達員の方々がいなければ読者には達しない。寒い日も、雨の日も、眠い日も、毎日毎日、本当にありがとう。どうか、お身体を大切に。
 私も少年のころ、新聞の配達をしたことがある。友は炬燵にはいっている。ともすれば、人びとから敬遠されがちなこの仕事。しかし、私たちよりも尊く、真実の厳しい人間革命の実践者は、皆さんであろう。ただ頭を垂れる。
  配達員 われもその道 朝の途
  誇りあれ 人間勝利の 今朝の跡

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