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日蓮大聖人・池田大作

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恩師の誕生日に想う  

1971.2.11 「随筆 人間革命」「私の履歴書」「つれずれ随想」(池田大作全集…

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1  冬麗、二月十一日。戸田先生のお誕生日である。ご生存であれば七十一歳。この日を記念して、日達上人の大導師で、創価大学の竣工式を午前十一時二十五分より挙行する。五百名が参列。先生の奥さまも、ご子息も嬉しそうであった。牧口先生のお孫さんも、晴ればれとしている。いや、参加者のだれもが、心から喜んでくださった。奥多摩の山々の、光と影が彩なして美しい。
 先生逝いて、早くも十三年。伸一夫婦は、毎年この日に赤飯を炊いて祝った。たんなる形式的行事では決してない。胸奥より、そうしなければいられなかったのである。夫婦にとっては、主人であり、師匠であり、親でもある……生涯にわたる、人生の師であるからだ。ある人は、自分がいちばん可愛がられたというであろう。それはそれでよい。しかし、私は私である──先生との間に、距離や媒介ともいうべきものは存在しなかった。仏法に説く師弟の道を貫いたと自負している。一点の悔いもない。
 四月二日。先生のご命日である。せめてもの報恩として、この日を、創価大学の開学の日と決めさせていただく。この最高学府より、二十一世紀にわたる平和の戦士が、そして指導者が、陸続と飛翔することを祈らずにはおられない。それを願望とする私としては、いかなる批判も苦節も耐えていこう。
 いま、私には私の使命がある。貧しい無名の一青年を、ここまで育ててくださった恩師。私は紅涙をしぼりながら、師の偉大な理念と、歴史とを書きつづけるであろう。十三年前、初七日のときの歌である。
  恩師逝き
    地涌の子等の
      先駆をば
    われは怒涛に
      今日も進まむ
 いまも、自宅にその色紙をひとり掲げている。
 私は、先生に幾たびも叱られ、幾たびも激励された。長男が誕生したときは、ことのほか喜んでくださった。博く学んで、正義の人に育つようにと、博正と命名してくださる。お祝いに、太刀を一振り贈ってくださった。妻にも、良い母になるようにと、香峯子との名を頂戴。二月十一日がくると、伸一の家には思い出が尽きない。歓喜。
 君は妙法の高山樗牛になれ――。これは、恩師の逝去半年前の言葉である。樗牛は三十一歳で死んでしまった。“君は生き抜け。絶対にわしの後継として生き抜け”と。いつとなく厳父の声。私は、ただ滂沱。ゆえに、私は書かねばならぬ。断じて書かねばならぬ。恩師に対する、さまざまな偏見と曲解を正すために。
 竣工式の帰り、武蔵野にある創価学園に立ち寄る。三月に卒業する生徒の代表と会食、懇談。見違えるように成長した。先生方に深く感謝。校門を出ると、真正面に盆のような月が笑っていた。

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