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日蓮大聖人・池田大作

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若き名編集者たち  

1971.1.25 「随筆 人間革命」「私の履歴書」「つれずれ随想」(池田大作全集…

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1  夜半の執筆も、私の日課。いま、十二時四十五分。ガスストーブが熱くなってきたので、妻に、一時、消してもらう。御書が、机の上に厳と置かれている。
 『人間革命』の連載第一回は、昭和四十年(一九六五年)の「聖教新聞」元旦号であった。“黎明”の章十三回分の原稿を、前年の十二月十四日に、手渡したことを記憶している。この日が、第一歩というわけだ。その担当として、編集長が、一人の青年をつけてくれた。
 彼は、二十三歳。東大の経済学部出身の秀才。H君である。入信は、昭和二十八年というから、なんと十一歳のとき。現在は、二十九歳。最近、見目うるわしき妻を娶る。彼は、第三巻まで、唯々黙々と、その任を全うしてくれた。
 第四巻より、第六巻までは、M君に交代。M君は、早稲田大学出身。俊逸。入信は十二歳のときと聞く。
 H君は、礼儀正しく、信望が厚い。原稿整理では、申し訳なく思っていたが、やがて栄転。現在は、広布の、より中核で奮闘。嬉しく思う。昨夜、彼と会った。さりげなく、当時の思い出話を、懐かしそうに語る。
 第一巻の、戸田城聖が出獄した刑務所の名称を、旧名(豊多摩)で、私は書いた。彼は、新名(中野)を調べて、それを親切に教えてくれた。第二巻の、終戦直後の食糧事情の数的裏づけも、資料室のマイクロ・フィルムで、つぶさに研究し、私に訂正を申し込む。
 私の拙い原稿を、未来にわたって残そうと、新聞の原稿用紙に書き写して、工場に回していたとのこと。その心情がありがたい。お陰で、私の原稿は、資料記念室に保存してあるようだ。恥ずかしいやら──自分のものは、いっさい無くなってくれたほうが、よいと思っている私には、迷惑でもあるが。嗚呼。
 H君は、聡明な人である。私が、地方指導のため、原稿が心配なときが多々ある。普通は、係りとしての責任上、「なんとか、今日中に頼みます」と、性急に言うのが常識。彼は、内心はいざ知らず、「先生、今夜いっぱい、まだ時間がありますから、明日の分を、よろしくお願いします」と。言葉遣いの丁寧さ。いまの時代には珍しい。彼のために、苦しませてはならぬと、しぜんに無理をして書く。
 毎日の連載である。挿絵画家に、原稿を回さねばならない。ゲラ直しの時間が必要であろう。そのなかで、なんのイザコザもなく、スムーズに動いてくれた。彼は名編集者だ、といまも感謝している。
 M君は、当年三十歳。なかなかの研究家。原稿に、少しでも間違いがあると、厳しく追及してくる。情熱家。静の人と動の人。大河の人柄と激浪の人格。戸田城聖が、子息・喬一にあて、獄中より出した一節に、楠正成のことが書いてある。彼は言った。戦後、発見された本人自筆の「古文書」によれば、“楠”ではなく、“楠木”である、と。登場人物の氏名を、私は慣れぬためか、つい間違えて書いてしまう場合があった。そこで彼は、リストを作成して、よく訂正をしてくれたようである。
 法悟空は、若い編集者に追いまくられながら、いよいよシーソーゲームを始める。
 昨日、石川県のある老人が上京。ぜひとも、鴬を書斎に、と。その真心に打たれ、お借りする。古典には、春告鳥、歌詠鳥、花見鳥と、歌人らは詠う。春も近い。梅の花も咲く。そして、鴬も鳴くであろう。
  まごころの 鴬鳴きて 筆走る

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