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日蓮大聖人・池田大作

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寒椿   

1971.1.23 「随筆 人間革命」「私の履歴書」「つれずれ随想」(池田大作全集…

前後
1  朝日が二階に射し込む。
 その二階の十畳間が、私の書斎である。私の家には、二十坪ほどの庭がある。その小庭園を、なによりも大切にしている。緑のない都会のなかでは、あたりまえのことであろう。
 幾たびか、もう少し広い庭があれば散歩でもできるのに、と思ったことがある。しかし、いまは、これで満足しきっている。
 窓を開けると、幾輪かの、白い、赤い寒椿が、健気に咲いていた。
  寒椿 四十の庶民の 鏡かな
 沈丁花の蕾も、ふっくらと時を待っている。冬の朝の大気は、厳しく、爽やかに、一日の背景を貫く。
2  『人間革命』の執筆も、早、七年になろうとしている。読み返すと、粗野な文で、直したいところが多すぎる。恐縮のかぎりと、胸が痛む。激しい法戦のなかでの、仕事であった。汗を流し、熱を出しながらの日も、多くあった。幾時間も横に臥し、考えの纏まらぬときもあった。一筋に、正確という一点を追って、ただ夢中に書いた。真剣に、挫折と戦った日々であったことだけは、おわかり願いたい。
 とくに、昨年の第六巻の連載は、身体をこわしてしまい、休み休みの執筆であった。読者の皆さまに、ご迷惑をかけたことを、申し訳なく思っている。自身への苦しい挑戦であった。
 思えば、昭和三十九年(一九六四年)、齢三十六歳。恩師の七回忌法要の席上、執筆の決意を披瀝してから、茲に七年。いま、四十三歳となる。法悟空は第七巻の準備に多忙。資料もしだいに集まってきた。富士の頂上をめざしての歩みを、再び進める。五合目からの、登攀の道は嶮しい。“道は遠い。すべて、大きい仕事の道は遠い”──ある作家の言葉である。だが、後世の歴史の審判をあおぐ、証拠の書として、残しゆく足跡は、誇り高い。──さらに皆さまのご支援を乞う。
3  第七巻は、昭和二十八年をテーマにしていく。いよいよ、戸田城聖が人間群に向かう年であった。非難の声を堪え忍ぶ、第一歩の前進でもあった。庶民の味方として。
 昭和二十七年暮れ、男子部に水滸会が結成された。また、女子部でも華陽会が発足。二十八年一月二日、山本伸一は、第一部隊の部隊長に就任。大阪地方、仙台方面に本格的指導。青年部にも地方部隊が誕生する。四月十九日には、第一回の男子部総会。四月二十八日には、五重塔の修復記念大法要が総本山で。五月三日、第八回の春季本部総会に五千五百名が集まる。つづいて、「婦人訓」が発表され、統監部が設置されたりした。六月には、第二回の教学部の任用試験があり、七月には、女子部も、神田・教育会館で第一回総会。つづいて夏季講習会、地方折伏を全面的に実施。登山会の月二回制。学会本部が信濃町に移転。秋季総会。年間折伏は五万を超え、七万世帯となっていく。
 庭に、遊びに来ているのであろう──チュンチュン、雀が何かを語っている。前方の工事場の作業が始まった。時計の針は、八時をさしている。執筆は苦しいが、人生にとって、最も張り合いのある仕事であることに変わりはない。多くの人びとと語ることができるからである。私は、そう思いながら、第七巻の原稿の、一枚目にペンを走らせていこう。
 外を見ると、太陽の光が眩しい。

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