Nichiren・Ikeda
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夫婦愛のぬくもりを遣して ベロニカ・ト…
「私の人物観」(池田大作全集第21巻)
前後
1 トインビー博士ご夫妻との思い出は、いつも黄や緑のパステルカラーに包まれている。ご夫妻をロンドンに訪った一九七二、七三の両年ともに、明るい日差しに恵まれた、新緑のころであったせいかもしれない。
人の心になにかしら強く作用せずにはいない、あの陽春の一時期に、博士と私は、対談の日を重ねた。その折に、部屋のすみに座って、両手を膝に置いたまま、ほとんど身じろぎもせずに静かに対談の成り行きを見守っておられたのが、ベロニカ夫人であった。
夫人がっと立ち上がるときは、午前の日が差し込んでいる部屋に温気が籠るのを見てとり、窓を開け放って爽涼な外気を取り入れるとき、あるいは対話が一時間ほど進んだところで、お茶とクッキーを載せたワゴンを運び入れられるときであった。
すでに八十三、四歳であった博士は、聴力がやや不自由で、時折、博士には聴きとらえがたいところがあった。そんなとき、夫人が、″耳代わり″となって、伝えていた。
それらを外せば、夫人は平静そのもので、寡黙であられた。けれども、対談最中の博士の若々しい緊張を見守る夫人の眼差しには、こまかく行き届いた愛情の目くばりというようなものが感じられたのである。
日課をうかがったところ、毎朝、お二人でキッチンに立って、朝食の支度をされるという。健康に良いとのことであった。以前には、すぐ近くのホーランド・パークを連れ立って散策するように努めておられたらしい。私も、一度だけ、博士の腕をとって、ホーランド・パークの樹間の道を歩いたことがある。博士は一歩一歩拾うようにゆっくり歩まれながら、「ここを夫婦二人で歩くのです」と目を細めておられたことが思い出される。若葉の匂いをまぜた風が吹いて、それが静かなお二人の散策姿をしのばせるのであった。
七三年であったか、ご自宅へうかがったある日、ご夫妻にお贈りした大絵皿が、倒れて割れていたことがあった。お贈りした木製の脚が貧弱すぎたのであった。明らかに私どもの不手際である。そのとき、ベロニカ夫人は、にこやかにこう言って、窮地を救ってくださったのである。
「昨夜、このフラットの上を飛行機が大きな爆音をたてて通ったのです。建物が揺れるほどでした。そのときに、倒れたのでしょう」
人の心を損なうまいとされる夫人の心遣いの奥床しさに打たれた。
いつもお二人そろって戸口まで送り迎えに立ってくださった。私たちの姿が見えなくなるまで手を振りつづけられる博士。その傍らに立ち添っておられる夫人の静かな、おだやかな笑顔が、今も脳裏に焼きついている。
一九七三年五月十九日――対談の最終日が、博士と夫人とにお会いした最後であった。
2 ベロニカ・マージョリー・ボウルター女史がトインビー博士と結婚されたのは、一九四六年、博士が五十七歳のことである。四つ年下のベロニカ夫人はケンブリッジ大学の出身で、同大学初の女性学士であったとうかがっている。博士の知的作業を分かち合うにふさわしい知性の持ち主であった。
それ以前から、夫人は長く博士の良き協力者であった。一九二五年に博士が王立国際問題研究所の所員となり、同所が発行する年刊の執筆にあたることとなったとき、その非常勤助手に就かれたようである。二十冊を超えるまでに書きつづけられたこの年刊では、夫人も博士の共同執筆者であった。また博士の主著『歴史の研究』の索引作成にもたずさわった。これについては博士自身が「この熟練した骨の折れる仕事が愛の労作であることに私は嬉しく思っている」と『歴史の研究』のなかで述べておられる。
『歴史の研究』は、博士四十一歳、一九三〇年に執筆を開始し、いくらかの中絶期間をおいて、六十五歳、一九五四年の第十巻をもって一応の完結をみるまで、幾歳月にもわたる長大な著作である。その克明な索引事つくりが、ただに語句の挙示のみの作業にとどまらず、トインビー史観の把握と、殊にもトインビーという人そのものへの傾倒とを要求したであろうことは、容易に察せられる。
目的を一つとした共同作業が、おのずと互いの理解と愛とを深めていったであろうことも、想像にかたくない。
3 近く片田舎に移るので、そこで再会したい、とご夫妻は言われていた。その言葉どおり、お二人は私が最後にお会いした一九七三年のうちに、ロンドンの都塵を避けて、ヨークシャーに転居された。お宅には、ヨーロッパにいる私の友人に何度か足を運んでもらったので、私も様子を聞きおよんでいる。
その家は、ヨークシャーに特有の緑深い景致をなした丘の上にあるという。すぐ目の下には緑を畳ねた谷間がゆるやかに開け、その向こうに小高い山がせりあがって、風光の美しいことはまことに絵のようだという。
ご夫妻は、そこで普通の閑適生活に入られたわけではない。博士は新聞への寄稿そのほかの仕事をされ、ベロニカ夫人がそのための材料集めや原稿の整理といった助力を尽くしておられた。やはり身辺の怱忙さは抜けきらなかったようである。それでも薄いタ畑があたりを罩めるころ、斜陽の朱に染まった見晴らし窓の傍らに椅子を近寄せ合って時を過ごされるお二人の姿には、えもいわれぬ平安さが漂っていて、ふと話が跡絶えでも、無言のうちに有無相通じておられるようだつたという。
そんなお元気な博士が脳卒中で倒れ、長の病褥に就かれたのは、翌一九七四年夏のことであった。ベロニカ夫人からは、もはや本復の兆しのないことを知らせる便りがきた。
「主人を尊敬される人びとにとっては、今の主人ではなく昔の主人に心を留めておかれたほうがよいと感じるのです」と。
七五年五月、私は、博士との対談をまとめて発刊なった日本語版『二十一世紀への対話』を携えてロンドンにおもむき、博士の秘書ルイス・オール女史に手渡した。厳しい養痾の日々を送る博士にも、夫人にも、お会いするわけにはいかなかった。その年の十月、博士はついに臥床を去りえずして逝かれたのである。
まもなく夫人が寄せてこられたお手紙は、私を襲っていた深い落莫の思いを、いくらかでも和らげてくれるものであった。「……私のなすべき仕事は、ここにたくさんあります。これらのために時を過ごすことは、休養と気晴らしを求めるよりも、悲しみと喪失感に立ち向かう最上の方法なのです」とあったからである。
夫人はすすんで仕事を見いだすことによって、もはや愛する者との永遠に会うことのできえぬ悲しみに打ち勝とうとされたのである。博士遺愛の書籍が積まれていたであろうあのヨクシャーのお宅で、博士の遣された原稿の整理に寧日なかったようだ。
そのベロニカ夫人も、昨年(一九八〇年)十月、博士の死から五年にして不帰の旅につかれた。お年は八十七歳前後であられただろう。オール女史のお話では、いたって安らかな死であり、「平穏な、満ちたりた余生を送っておられた」とのことであった。
今なお私の耳に歴々として響くトインビー博士の快活な声。そして瞼にのこる、穏やかながら、どこか稟としたベロニカ夫人の面影。お二人のことを回想するとき、博士の詩の一節が思いにのぼる。
かくも親しき伴侶を持てる者にとって、追放も追放とはならない。
妻の愛情があるところ、いたるところが祖国である。
4 博士は『歴史の研究』によって世界的在名声を博したが、歴史学界の一部には厳しい批判を浴びせる者もあった。しかし、そんなときこそ、ベロニカ夫人が最も力強い支えとなったであろうことが、この詩によってもしのばれるのである。
いかなる道にせよ、まず身を捨てることによって切り拓かれる。トインビー博士ご夫妻もまた、そういう尊く強い人間の道を貫かれたのだと思えてならない。