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日蓮大聖人・池田大作

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シルクロードのロマンに生きる 常書鴻・…  

「私の人物観」(池田大作全集第21巻)

前後
2  翌々日、常書鴻さんは、令夫人の李承仙りしょうせん女史とご一緒に、私が投宿している北京飯店を訪ねてこられた。七十七歳と聞いていたが、大変にお元気そうである。まことに恰幅のよい丸顔の優しい目、そしてやや八字なりの眉毛つきが、いかにも同満そうな好々爺ぶりである。
 初対面のあいさつもそこそこに、私の部屋の片隅に据え置かれている応接セットに着いていただいた。窓からは、麗らかな春の日差しのなかに、北京の家並みが見える。
 「常書鴻先生が敦煌に打ち込んでこられた、いわゆる″敦煌狂″の閲歴については、孫平化先生から、よく承って必ります」
 私がとう切り出すと、一座は大笑いとなった。常書鴻さんの豊かな両頬にも、紅が潮して、同じく屈託なく笑っておられる。
 「いや″狂″でなく″先駆者″ですね」と私が言い直すと、
 「では、その″敦煌狂″の由来について、まずお話ししましょう」
 常書鴻さんがそう応えて、部屋はまた哄笑の渦となった。しかし、真顔に戻った常書鴻さんの目の内には、懐かしい昔に向かう郷愁の瞬きのようなものがあった。生まれは、浙江省杭州の西湖の辺である。この美しい湖には、私も訪れたことがある。湖辺を周り、舟を出して、ひとときを憩ったのである。その環境によってなら、常書鴻さんが小さいころから美術に魅せられていたことも頷かれる。
 一九二七年、二十二歳でフランスへ渡っている。当時は、まだ西洋美術に心酔していたのである。
 「西洋画を学ぶにはギリシャ、フランスを勉強せよという一般的な考えに従ったのです。しかしある日、パリで敦煌に関するアルバムを見た。私は、中国人として祖国の敦煌を知らなかった。これはいけない、と思いました」
 フランスでの常書鴻青年は、リヨン美術学校を経てパリのボザール(高等美術学校)に学んだ。やがて、展覧会で入賞するようになっている。ところが、ある日、セーヌ河畔に立ち並ぶ露店の一つで敦煌の画集を見いだした。息をのむような、中国古美術の圧巻――。しかも、それらは異国の人間の手によって、中国の辺境の地から運び出されたものだ。青年の心は、しだいに西洋から祖国へと向かいはじめた。折から、中国は、日本軍国主義の蹂躙にあえいでいた。
 《そうだ、祖国へ帰ろう。敦煌石窟の宝物をいだく祖国へ。そのためにすべてを捧げよう》
 滞仏十年にして、常書鴻さんは、自らに与えられるべき天職を、痛恨の思いとともに、悟っている。
 「三十二歳で、中国に帰りました。しかし、所期の研究をするには新彊省とアフガニスタンに行かねばならない。国民党時代は、軍闘がいて行けなかった。解放後はじめて一九四三年に視察を行ったのです」
 この念願の敦煌行きは、ラクダの背に揺られて困難な砂漠路を踏破した果てに、ようやく達せられたものであった。目の前に仰ぎ見る、四世紀から十四世紀にまでおよぶ、これらの絢欄たる壁画、天井画、彩色を施した美事な塑像の群れ。
 「驚いたことには、一九〇〇年ごろ、英仏はすでに敦煌から大量に貴いものを盗み出していたことがわかったのです」
 常書鴻さんは、両手を広げて慨嘆を新たにされた。それは、世に敦煌遺書と呼ばれる、数万点に及ぶ仏典、道教、文学作品などの古文書で、東洋史学上、比類のない価値をもったものである。英仏の探検隊が、それらを持ち去っている。
 私が生涯をかけてとの芸術の宝庫の保護者になろう――砂に埋もれ、崩れかかった石窟群は、新たな決意を、呼び起こしたのである。
 以来、常書鴻さんは今日までの三十数年間、石窟の傍らの研究所で過ごしてこられた。それは、苦難の連続の半生であった。国民党政府から研究費さえ満足に送られてこない。粗衣粗食はいうに及ばず、頭が灼かれるような夏、風も凍るような冬という、乾燥アジアの気候が身にこたえた。常に強風が吹きまくり、容赦ない砂嵐にも耐えねばならなかった。敦煌のすぐ北方は、広漠たるゴビ砂漠である。
 作品の模写・保存、石窟の修復・補強、総合的な研究といった作業がスムーズに運ぶようになったのは、新中国が成立してからのことのようである。しかし、いわゆる「四人組」の時代には、再び大きな難をうけた。「壁画は妖怪変化である。その大将が常書鴻だ」などと批判され、とうとう研究所から四年にわたって追放されてしまった。今では「よく自殺しなかった」と人から言われるそうである。そういう問いには「いや、私はなにも悪いことはしていないのだから、自殺などありえなかった」と答えるとのことであった。
 まだ一般には頒布されていないという敦煌石窟の絵葉書を示しながら来し方を語る常書鴻さんの周りには、清明な安息感とでもいうような空気が漂っていた。それは苦渋のなかにも信念を小揺るぎもせず貫いてきた人の、今は良き平和な思いに澄みきった安息である。傍らの李夫人は、研究所での険しい仕事をともにされた方である。労苦を分かち合ってこられた夫人の笑顔にもまた、安らぎの表情があった。
 私のさまざまな質問に答えて、常書鴻さんは話を進めていかれた。ふとテーブルの上にメモ用紙を広げて、地図を描き、武威、張掖ちょうえき、酒泉、敦煌と漢字をしるした。紀元前一一一年、漢の武帝が設けた、四つの町の名で、いずれも蘭州から敦煌を結ぶシルクロード上のオアシスを成していたものである。
 その線をさらにたどって葱嶺山脈を越え、カシミールへと繋ぐと、それが仏教伝来の一つのコースだ、と常書鴻さんは説明された。法顕や玄奘も、インドへ行くのには敦煌を通過している。敦煌芸術は、仏教を宣揚するためのもの、とも言われた。
 ギリシャ文化との関連も話題になった。アレキサンダー東征軍に従ってきた宮廷芸術家らがガンダーラに残って、仏像をつくったとの史実を、常書鴻さんからも聞いた。
 「最初に仏像をつくったのは、ギリシャ人の仏教徒です。インドの仏教徒は仏さまをつくるのは、申し訳ないと思い、あえてつくらなかった。お釈迦さまがこわかったというか、心から畏敬するものは像につくれないということかもしれない。しかし、ギリシャ人の仏教徒は、故国ギリシャのアポロの像みたいにつくろうということになったのです」
3  私たちのシルクロード談議は、昼食の席に移ってからもなおつづいた。延べ二時間半にも及ぶ長談議となったのである。
 「常先生の名は、いよいよと″敦煌″であられますように」
 私がそう言うと、ちょっとびっくりしたような顔をされた。敦は″大きい″煌は″輝く″の意味、とは、常書鴻さん自身から教えていただいたばかりのことである。「いよいよと″大きく″、″輝く″ということです」と言うと、常書鴻さんは「ありがとう」と言って、破顔大笑された。
 「次は、敦煌でお会いしたいものです」
 そう言ってお別れしながら、ふとまだ見ぬシルクロードの古跡が、雲遠く、砂丘はるかに思い描かれるのであった。

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