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日蓮大聖人・池田大作

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二十一世紀への日ソ教育交流 ホフロフ・…  

「私の人物観」(池田大作全集第21巻)

前後
2  モスクワ大学は、その内容もまた十六学部の教員、学生を合わせて約五万人を算する壮大な規模である。「モスクワ大学と比べれば、わが創価大学は孫みたいな存在です。しかし、二十一世紀にはモスクワ大学に匹敵する存在に、というのが私の夢なのです」と私が言うと、総長は「大きいから必ずしもよいとはいえません。モスクワ大学もまた二十一世紀の専門家をつくることを目的としています」と答えておられた。
 ある一夜、ロシア料理のレストランに招待してくださった。それはトルストイやチャイコフスキーらが去来したこともあるという格式ある店であった。
 店の入口で、パンと塩を持った人形に出迎えられた。電動式であろうか、前後に体を揺さぶって私に話しかけてくる。思わず見つめる私の表情を見てとって総長が解説された。
 「ロシアの習慣として、パンと塩で出迎えました。このパンはシベリアの小麦でつくったものです」
 これは客を迎える農村特有の慣習である。壁も柱も白木を組んで昔の面影を再現した、閑雅なレストランである。壁ぎわの角灯の淡い灯も幾十年も前の光のままに感じられた。このような場所を選ばれた総長の心温まるもてなしがその場の随所にあらわれているようだった。心に残る歓談のひとときを過ごしたのである。
 エレーナ夫人には、そこで初めて、お目にかかった。やはり科学者とうかがったが、総長の発言には明るい微笑を浮かべて耳を傾けておられる。お二人のあいだにさりげなく通う愛情の絆というようなものが感じられたものである。
 このほか、昼餐会を催して歓迎してくださったり、ボリショイ劇場にご招待をいただき、夫妻と一緒にバレエを鑑賞したりという、くつろぎの機会を設けてくださった。
 私のソ連滞在は十日間であった。シェレメチェボ空港から発つ夜も、総長夫妻は見送りにこられた。そのとき、私は「ぜひ、日本でお目にかかりたい」と希望を申し上げた。
 日本での再会は思ったより早く実現することになった。その年の十月末から十一月にかけて、つまり一か月半後、総長夫妻の来日される機会があり、この折に旧交を温めることができたのである。歓迎の晩餐会にお招きし、創価大学、創価学園にもご案内した。そして、十日間の日本訪問を締めくくって、私を訪ねてくださり、再びモスクワで会いたいと言われた。
3  翌七五年四月、総長からの手紙には、次のようにあった。
 「モスクワには春がやってきました。雪が全く解けて、町は緑に包まれはじめております。咲き盛るリンゴの花を大学の窓から眺めながら、再び私たち共通の諸問題について話し合えたら素晴らしいことでしょう」
 明くる五月、二度目の私の訪ソは、ソ連作家同盟の招待によるものであった。そのときのモスクワは総長が書いて寄こされたように、リンゴの白い花が咲きこぼれ、木々の若葉が美しく出そろった、春の盛りであった。
 一週間のモスクワ滞在中、ボリショイ劇場でのショーロホフ氏生誕七十周年記念式典やコスイギン首相との再会といった日程の合間に、モスクワ大学ではいくつかの記念行事が用意されていた前回の訪問のときに贈呈させていただいた三千冊の日本語図書を公開するブック・フェアの開会式で、私は総長と一緒にテープにはさみを入れた。その折、総長は、創価大学に三千冊を贈書したいと申し出られた。また、両大学間の教育交流のための協定が調印された。総長の尽力によって、教育交流はスムーズに軌道に乗っていったのである。
 私に「名誉博士」の称号が授与される儀式が総長室で執り行われたのもとのときであった。卒業生の楽手による荘重な弦楽四重奏が流れるなかで総長は心から嬉しそうな表情で見守ってくださった。式のあと、私は、大学の文化宮殿で「東西文化交流の新しい道」と題して、一時間半ほどの記念講演をさせていただいた。
 「そうです。精神のシルクロードをともに通わせましょう」――諸行事のあと総長の言われた言葉が、今も心に深く刻まれている。
4  二年後の七七年四月、ホフロフ総長は再来日された。このときも教育交流の展望について親しく語り合った。そのとき、総長のお母さまが病気加療中で、欲しい薬が日本でも探してみたが見つからなかったとのお話をうかがった。私はさっそく外国から取り寄せて、ソ連に帰られた総長のもとへ送ってさしあげた。
 翌五月、総長からの親書を見ると、薬は無事、お母さまの病床に届けられたようである。また、モスクワで再会したい、との希望がしるされであった。
 そのお元気な総長が急逝されたとの報が入ったのは、それから三か月と経たない八月九日のことである。モスクワでいつも通訳にあたってくださるストリジャック氏に国際電話を入れて確かめると、″好きな登山中での事故″とのことだった。
 まだ五十二歳の若きである。私より二つ年上であった。
 レーニン賞をうけ、ソ連科学アカデミー準会員という地位にあった総長の未来は、これから全面的に開花しようとするところであったのに、開きつつある花が輪のまま落ちたようで、まことに残念でならない。
 最愛のご主人の遺志を継ぎ、学問と平和探求の道をさらに歩まれるように、と、心からの弔意をエレーナ夫人への電報にしるした。
 やがてきた夫人からの書簡には、次のようにあった。
 「たとえ時が過ぎ去っても、夫を亡くした悲しみほど耐えがたいものはありません。しかし私は、今後の人生にあって、息子や友人が支えと力になってくれるものと信じております」
 「私は、しばしば夫とともに歩んだ幸福な生活の日々を思い出します。数多くの思い出のなかでも、とくに日本を訪れ、(創価)大学を見学したときのことが思い起こされます。私は、夫がソビエト国民と日本国民の友好親善の発展に少なからず貢献できえたこと、そして日本において多くの友人を得たことに、大きな誇りを感じております」
 別れの悲しみは、歳月とともに深まるものかもしれない。文面に抑えられた心情が、胸を刺すように伝わってくる。才学に優れ、人間的な芯の強さを優しさのうちに包み込んで、総長の傍らにいつもおられた夫人の姿を思った。そして、悲しみに打ちかつて、幸多い人生を歩まれるよう私は祈らずにはいられなかった。
5  三たびの訪ソの本年(一九八一年)五月、私は多くのソ連の功労者が眠るノボデビチ墓地を訪れた。ホフロフ総長の墓地が、ここにあるからである。墓前に花束を飾り、物理学者であるエレーナ夫人とともに冥福の祈りを捧げた。
 それからただちにモスクワ大学構内にあるホフロフ宅にうかがった。そこで初めて、二人のご子息に会った。長男のアレクセイ君は、モスクワ大学物理学部の博士候補、次男のドミトリー君は同じ学部の大学院ということで、二人とも物理学者であった故総長と同じ道を歩む若き学究である。ご遺族と、私と、妻と、通訳の方と、紅茶を飲み、チョコレートを頂戴しながら、家族的な語らいをすることができた。
 最後に私は「長い冬が去り、必ず緑が萌え出る時がくるように、ご一家にも必ず、総長のご遺徳で、輝かしい幸せの時がくることは、間違いありません」と激励した。エレーナ夫人はじめご遺族は「どうか先生ご夫妻が私の親戚でありますように、また、これからの長い旅が平安でありますように祈っております」と別れを惜しんでくれた。
 別れぎわに、記念として、総長の遺稿集のほかに、一枚の写真をいただいた。「ホフロフ家より」とサインされたその写真は、山登り姿のホフロフ総長であった。「山を愛しておりましたので」と、エレーナ夫人は、写真にじっと視線を注いでおられた。
 残された二人の立派なご子息が、必ずやお父さまに代わって、日ソの教育、文化の交流に尽くすことは間違いない、と私は祈っている。

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