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日蓮大聖人・池田大作

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日中国交に尽くした″金蘭″の人 松村謙…  

「私の人物観」(池田大作全集第21巻)

前後
2  中国をはじめアジアを劣等弱小国として見下ろす姿勢は、日本が国を開いた明治以来の伝統的なものである。発想の座標を、常に欧米を軸としてきた。戦後、保守政権もその流弊を継いで、中国封じ込めを旨とするアメリカのアジア政策に全面的に協力してきた。
 ところが松村さんは、早くから中国の巨大な未来性を見抜かれて、平和のためには日中の共存共栄は欠かせない、との信念であられた。私も、全く同感であった。
 突然、松村さんは声を高くして言われた。「池田さん、あなたのような方が、中国に行ってもらいたいのです。私と一緒に、ぜひ行きませんか」と。
 私は「政治家ではありませんが、どうでしょうか」といって、ご好意ではあるがと、辞退した。松村さんは、近く訪中を予定されていた。その言葉をうかがいながら「命を賭けておられるな」との実感が迫ってくるのであった。
 地味で、率直で、毀誉も褒貶も深く意とせず、といった人柄とみえた。そして、短見な政治家の少なくないなかに、珍しいほど、予見者的な先見性の持ち主でもあられた。
 お食事をご一緒しながら談論風発、楽しく世界観を語り合った。お帰りのきわに、訪中の成功にと思って、花束を捧げた。その折の松村さんの嬉しそうな笑顔は、今もって忘れられない。
3  松村さんが、戦後五回目にして最後の訪中に発たれたのは、それから十日後のことである。前年来めっきり衰えている健康状態が危倶されたが、松村さんは周囲の反対を押し切った。
 後で知ったことだが、「生きて帰れぬかもしれない」と覚悟のほどを語っておられたという。ご家族も「本人が中国で倒れるなら本望だろう」と送り出されたようである。
 当時、日中関係は危機的な様相を深めていた。それだけに、松村さんは死に隣した旅を敢行されたのであろう。車イスに乗って出発されたとの新聞報道には、胸を熱くさせられる思いであった。
 翌一九七一年二月、松村さんは新宿の東京国立第一病院に入院された。胆石と聞いたが、病床を去ることができないまま、日数が過ぎていった。
 ある日、使いを立ててお見舞いした。白い蘭の花束をお届けしたのである。松村さんは愛蘭家としても有名であった。花の好きな人は、心の美しい人である。病室には「面会謝絶」としであったが、使いの入室を許され、花束をご覧になって大変に喜んでくださったと聞いた。
 同年七月、歴史的なニクソン訪中計画の報を、松村さんは病床で聞かれた。冷戦外交を軸とするアメリカのアジア政策が、大転換しようとしていた。日本の中国政策の変更も、もはや時間の問題である。寝たきりの状態で、松村さんが「早く首相みずから中国へ行け」と言われたことが報道された。
 それから約一か月後の八月二十一日、松村さんは八十八年の生涯を閉じられた。まことに惜しまれることであった。
4  松村さんの死を区切りとするかのように、日中友好のムードは、挙世滔々たる潮流となって盛り上がっていった。一九七二年九月、ついに国交正常化が成った。
 私が初めて訪中したのは、その翌々年五月の末のことである。まだ北京への直行便が開かれていない時代であった。香港からの列車を降り、中国領内とを結ぶ鉄道橋を歩いて渡るとき、亡き松村さんのことが思われてならなかった。松村さんもまた、四年ほど前に、八十七歳の老躯をおそらくは車イスにゆだね、小憩みしながら、この橋を渡られたはずである。恩深き先人の道を一歩一歩、私は、感慨深く踏みしめた。
 そうして中国の大地に第一歩をしるし、そこからさらに鉄路をとった。はるかに視界のかなたまで広がる緑の大平原を一路北上しながら、感謝とともに老翁の面影をしのんだのである。
 松村さんは、清貧を旨とする国民政治家である。ご遺族の回想によれば、戦後十三回の選挙を通じて一度の違反もなかったという。
 七七年夏ごろであったと思う。『花好月圓』と題する松村さんの遺文集を、ご子息の進氏から頂戴した。それを見ると、故人の人柄がいっそう鮮やかに胸に迫ってくるような文章が多々読まれた。
 とりわけ二つの文章に目を惹かれた。一つは夫折した三男・甲子郎さんをしのんだものである。
 「甲子郎が死んで十七年、彼を憶ふと本当に耐えがたき気持になる。(中略)東大の航空学科に優秀な成績を以て入学し、喜んで故郷から上京したその夜から、肺炎を病んで遂に帰らなかった。彼はむしろ文学に興味をもった。それを戦時中のことでもあり、私も激励して工学の方に進むことになった。彼にしてみれば重い負担であったらう。戦争の一つの犠牲と思はれる」
 爆撃のために、その死に立ち合えなかった、と父親としての痛恨の情をつづっておられる。
 もう一つは、終戦の少し前に次女・治子さんにあてた書簡である。その夫君の硫黄島出撃に関している。
 「さて硫黄島の事心痛に不堪候。(中略)如何なる不幸の事有之候とも此の大戦中には日本国中には夫を喪ひ子を喪ひたるもの多数に有之、必ず取乱したる事なき様これのみ念じ居候。深く観念して成行を観られ度候」と。
 銃後を守る妻の心構えを、暗い予感とともに教え諭している。不幸にして予感は的中してしまった。松村さんは夫君を喪った娘さん一家を引き取り、末永く慈しんだ。
 日中平和のために尽力された人の胸の奥に、忌まわしい戦争体験の潜んでいることを知って、深い共感を禁じえなかった。
5  親しき友情を中国では「金蘭の交わり」という。蘭を愛された松村さんを思うとき、この言葉が心に浮かぶ。
 人生の出会いには、たとえ一度であったとしても不可思議な、心に深き思いが残る出会いがあるものだ。
6  松村さんには、松村さんの時代と信念とその道があった。
 私には、私の信念と道がある。
 松村さんの、日中友好への貢献は、歴史的な実証として賛嘆されていくであろう。とともに、表に立たずして、日中友好に尽くされた人も、多くいるかもしれない。
 歴史には、真実の表と裏との潮流をなしゆく有名無名の、偉大なる人びとが、常にいることを決して忘れてはなるまい。

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