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日蓮大聖人・池田大作

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環境問題のヒューマニスト ルネ・デュボ…  

「私の人物観」(池田大作全集第21巻)

前後
2  しばらく博士の身辺の事柄についてうかがった。細菌学では世界的な権威者である。とともに環境問題にも造詣が深く、その方面の著書はいずれも反響を呼んだが、なかでも『人間であるために』は一九六九年度ピュリツァー賞に輝いている。その博士が、当時はニュヨーク郊外の小さなアパートに住まわれていること、植樹が趣味だが木が育つのを見届けるために百歳まで生きたいこと、など楽しそうに話される。
 そのころ開学してまもなかった創価大学には、強い関心を示された。私が、人間教育を主眼としていること、などをお話しすると、博士は、アメリカの大学教育について「機構があまりに物質的で、人間的環境に欠け、自分がいかに生きるかの認識を学生に与えていない」と、肩をすくめて嘆息された。
 若い人びとへのモットーをお願いした。博士は、ラプレーの言葉だといって「まず最初に何になりたいのか、何でありたいのかを明確に決めよ。そうすれば他は天より授けられるであろう」という綾言を挙げられ、「しかし、授けられた可能性のなかから正しく選択するのは、その人自身の問題です」と付言された。
 これらの言葉は、しだいに私の心のなかでまとまった形をとり、意味を帯びていった。「環境」「適応」「選択」といった語とともに、デュボス博士の思想に伏流する環境論が、さりげなく表出されていたのである。
3  博士は終始、和らいだ笑顔を見せておられる。科学者らしい研ぎすまされた英知も、その温厚な人柄に包み込まれているようである。
 「環境問題へのアプローチは、物質主義的であってはならない。人間主義的なアプローチが、まだまだ足りないと思う」と博士は話題をしだいに核心に移されていった。「環境問題の解決は、根源的には、″人間精神の不変の要求″といった視点からとらえるべきです」と。
 生物学的存在としての人間には、適応能力の臨界がある。この点をわきまえたうえで、現在の技術的環境を変えるのでなければ、逆に環境がわれわれを変えてしまうであろう。人間は、いまや責任ある選択を迫られている――これが、環境問題において博士が世界に発する根本的在問いかけである。
 たとえば、人間はたとえ海や宇宙の深淵に居住空間をつくりえても、やはり基本的には地上と同じ環境条件を自分に密着させておかなければならない。地球の新鮮な水や空気と同じ成分を供給してくれる″へその緒″のような装置でつながれていないかぎり、生存は不可能である。この人間の生物学的な本性は、太古から変わっていない。
 このように、人間の経験的過去や、生物としての本性は、遺伝子に受け継がれ、あるいは精神の深層に刻み込まれて、人間生命の内発的な要因を形づくっているという。博士の言われる″人間精神の不変の要求″とは、そのようなものをさしているようである。
 このような思想は、世界の未来像というテーマで私が質問したときにも、うかがえた。
 「共産主義、資本主義、民族主義などのイデオロギーは、これからどうなっていくであろうか、また、人類救済の道はいずれにあるのだろうか」との設問である。
 博士は「難しいが」としばらく眉根を寄せておられたが、やがて答えられた内容は、きわめて明快なものであった。「これらのすべての主義というものは、もはや創造的な力にはなりえない。その主な理由は、これらの主義が考えている人間のとらえ方が根本的に、経済的人間、政治的人間にすぎず、基本的な人間の欲求には目を向けていないということです」
 一言にしていえば″生命的な存在としての人間″を立脚点とせよ、ということだろう。博士は、さらにつづけて言われた。
 「したがって、二十一世紀にわれわれがなすべきことは、すでにふれたように、基本的な、しかも普遍的な人間精神の欲求とは何かを再発見することです。そして、その基本的、普遍的な欲求を満足させる形で、社会を組織しなおすことです」
 博士は、とくにこれまで環境問題の視点から、科学の分野に人間性の回復を主張されてきた。しかし、イデオロギーの問題にもなお″人間″を見据える発言が、印象深かった。心からの共感を込めて「私も以前から、二十一世紀は″生命の世紀″としなければならないと主張し、実践もしてまいりました」などとお話しすると、博士は温顔をほころばせて、深くうなずいておられた。
4  生命の永遠性についても、ご意見をうかがった。博士は「あなたの質問は、難問ばかりですね」と苦笑されながらも、「個人が現世を超えて生き残るということを信ずる」と、肯定的であった。その理由の一つとして、人類史の発端と同時に宗教があったこと、そして原始人が死後の生命を信じていた形跡があることなど、人類学的な根拠を挙げられて、「太古にこのような観念が、人間精神に根ざしていたということは、それが人間の普遍的な特質を物語っているとも考えられる。人間は経験的過去を忘れ去ることはできないのですから」と述べられた。宗教的存在としての人間の本性を鋭く洞察した発言であった。
 対話に引き込まれて時の移るのを感じなかったが、ふと壁ぎわの置時計を見ると、すでに十時近かった。二時間におよぶ実り多い対談であった。
 別れの握手とともに、私はなにかほっとした気持ちになった。それは、トインビー博士との約束を果たせてよかったという思いである。デュボス博士との会見は、それより半年前にトインビー博士が私に課した″宿題″だったのである。
 その後、デュボス博士から、ご自身の近著『内なる神』が届けられた。その扉に「本書の最後の一行に『ものごとのなりゆきは運命ではない』とあるのは、私が日蓮正宗の教理を人文主義的、科学的に表現したものである」と、サインとともにしたためられであった。添えられた手紙を見ると「本書の精神は″人間革命″というあなたの思想と、必ずや一致するものと思う」とあった。
 ものごとのなりゆきは運命ではない――。
 私は、相接する部分が多々あった対談のひと夜を思い出す。そして、この一句を思うのである。人は、とかくものごとを運命のせいにしたがる。だが、運命の奴隷となってはならない。英知と勇気を発揮して、自ら希望を切り開きゆくことこそ、人間らしい自由意思の発揚ではないか、と。
 博士は今、七十九歳。ロックフェラー大学主任教授として、毎日、研究室へ通うなど、なお、お元気で活躍されているようである。

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