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日蓮大聖人・池田大作

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沈黙の世界にはばたく詩想 クリシュナ・…  

「私の人物観」(池田大作全集第21巻)

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1  われ高められし思想の喜びもて
 わが心を動かす一つの存在を感得せり。
 そは落日の光の中と、円き大洋と、生ける大気と、
 はた蒼き空と人間の心とを住家として、
 遥かに深く浸透せる或ものの崇高なる感じなり。
 ――ワーズワース「ティンタン寺より数マイル上流にて詠める詩」より(『ワーズワース詩集』所収、田部重治選訳、岩波文庫)
 港の向こうに夏雲が盛り上がり、午後の日盛りに、空も海も明るくきらめいている。
 「私が詩に興味をもち、詩作を始めたのは六つのときです。初めて感銘した詩人は、ワーズワースでした」
 昨年(一九七九年)七月のことである。横浜・本牧の穏やかな港風景を見晴らせる一室に、インドの詩人、クリシュナ・スリニバス博士をお迎えしていた。スリニバス氏はインドの新聞に私の詩集『わが心の詩』(英訳)の書評を寄稿してくださったこともある。話はしぜん、詩論となったが、博士の話しぶりには力強い抑揚があり、詩人らしい豊かな感情があふれていた。抑揚は、言葉それ自体よりも偽るところが少ないものである。
 博士は、インド南部タミール地方の大都会マドラスにあって、五十か国に読者をもつ同人誌「ポエト」を発行しておられる。世界詩人会議の創設者の一人で、活動舞台は国際的な広がりをもっている。折から第四回世界詩人会議がソウルで開かれ、その帰途、日本に立ち寄られたのだった。
 「ワーズワースのなかでも、とくに『ティンタン寺』の詩には強く惹かれました」と、博士はワーズワースの代表作の名を挙げられた。やはり博士も西欧詩の息吹にふれて詩の道を歩んでこられたようだ。「ティンタン寺」の詩は、自然を内面化させ、自然と人間の神秘的な関わり合いをうたったものである。いわば自然の奥にそよぐ広漠たる背面世界をしのばせる詩趣がある。そこに、このインド詩人の心と相通うものがあったのかもしれない――ふと、そんな感に打たれた。
2  博士は菜食主義者である。白いソファに埋めた長身は、それらしくほっそりとしている。詩作のほかには生活のたつきを求めず、清貧な暮らしぶりともうかがっていた。「私の詩は、宇宙、精神、真理、倫理を内容としています」。
 ″宇宙″″精神″……と、一語一語に力を込めて言われた。これらは常に私の心をとらえているものでもあり、なおさら興趣をそそられる思いがした。また、博士は「偉大な詩人がいなくなった」と大息しながら、
 「私は同人誌を通じて多くの詩を見ます。それらは良い詩だが、偉大な詩ではない。三十年ほど前に私は″塵埃の舞い(Dance of dust)″という詩を江湖に送りましたが、今の詩人は塵芥が舞っているようなものだ、しかし偉大な詩人は必ず将来現れる、という内容のものです」
 なかなか舌鋒鋭いものがあった。私も現代の詩の多くが剰那的、現実逃避的、自己否定的な傾向をおびており、民衆の魂を打つことが弱くなってしまったような気がするなどと所感をお話しした。
 「真実の詩人は、宇宙、精神、神などについて語る詩人です」
 博士はそう結んで、詩論にひと区切りをつけられた。博士の言われる″偉大な″詩というものがおよそ明瞭になった。インド的な詩魂である。絶えず無限なるもの、永遠なるものに目を向けるという、インド本来の伝統詩の青々とした水脈は、博士の詩をも豊かに潤しているにちがいあるまい。
 「こんど『川』という詩を書きました。私は地・水・火・風・空という″五つの要素″について詩作しているのです。『川』は水の部分にあたります。すでに『不滅なる火』を出しました。来年は″地″についてと、毎年、一つずつ書くのです。それが私の使命であり、それが終われば私はもうどうなってもよい、と思っています」
 ″五つの要素″すなわち″五大″とは、この五つによって宇宙万物ができているとする古代インドの宇宙観である。その一つ一つを、博士は情熱的なジェスチャーを込めて発音された。ここにおいて私は、はっきりとインド古来の宗教的な根底を、博士のこの詩想にみとめた。
  私は川とともに夢みる。
  川は生まれた、五大が憤怒する、産みの苦しみのなかに――。
  雷鳴は叫ぶ、絶頂の喜びを。
  電光はほとばしらせる、目ひさがしめる突風のいく筋を。
  …………
  強大にして不滅なる、空。
  それは育む、無数なる深紅色の、千々に切り裂かれた、宇宙と星雲とを。
  母なる川よ! 聖なる母よ! 永遠なる母よ! あなたの歩みが響く、あなたの歩みが響く。「時間」という日だまりの砂洲を越え、過ぎゆく諸事の胴中をつらぬき。(「川」)
3  博士の詩は、簡潔な言葉をもって激越に深みに向かおうとする調子がある。そして、いくらか前衛的ともいえる象徴主義も感じられる。しかし、結局は深いインドの伝統に、その象徴の源泉を見いだしているように思える。いかにもインド的なうたいぶりである。
4  「詩には常に呼びかけるもの(メッセージ)がなくてはならない。また、永遠性がなければなりません」
 博士は、内に燃えるような詩魂を秘めた眼差しで、稟とした調子で言われた。
 「しかし、詩人が使う言葉は、単に一部分でしかない。あとは″沈黙(silence)″なのです。この途方もなく広大
 な″沈黙″の深みから、ホメロス、ダンテ、カーリダーサのような人たちが、不朽の叙事詩をとりだし、自分を表現しようとしたのです」
 「この尊い″沈黙″の大空間のなかに、古代から今にいたるまで、どんな詩人も見いださなかった思想、誰もうたわなかった詩や歌があるのです」
 ここにいう″沈黙″とは宇宙そのものをさしているのだろう。無限への衝動、永遠なる世界への回帰、そしてそこに培われる想像の自由な翼が、博士の詩の根底をなしているようである。
 現実の世界の向こうに広がる、無限の″沈黙″の空間――しかしながら、その沈黙する深淵の広さや重みを身をもって感得し、そこからどれだけの生命を汲み出せるかは、詩人その人の精神の境地にかかる問題であろう。
 個としての自身の生命が、同時に、あらゆる自然現象を生かし存在させる生命の一部であり、宇宙にはそのような広大な生命が脈打っている。この宇宙生命にふれて、自分本来の在り方に目覚め、個であるとともに宇宙全体の生命として生きようと志向する。そういう生き方のなかに、どこまでも内面の深化を求めていくことが、詩人には求められよう。
 「私たちは、わが一個の生命を小宇宙ととらえます」。私は博士の言われた″五大″について、いくらか所見を述べた。五大が妙法蓮華経の五文字にあてはめられ、それぞれに深い意味があること。人間の肉体的な働きにもあてはめられること。すなわち五大がそのまま我即宇宙の哲理をあらわしていること……。
 私たちは大いに語り合った。博士が突然、英訳されていた私の詩を朗々と暗誦されて、驚かされた一幕もあった。
 「人間としての境涯が、最大の詩の源泉であると思います」と私が言うと、「そのとおり。偉大な詩は、偉大な詩人からしか生まれません。今後、真に偉大な詩人が出るとすれば、それは東洋からでしょう」と博士は明言して、快活な笑顔を見せるのだった。そんな博士の魂から流露するような、透明にして純粋な雰囲気が、鮮烈に私の心には残っている。
5  インドは不思議な国である。そこを訪れる者は、路頭にあふれる貧しさや喧騒に胸がつまりそうになりながらも、なお心の奥深くに言い解きがたく忍び寄るものを感じとる。その大地それ自体に、悠遠な伝統思想と豊かな詩情がたたえられているといってよい。
 スリニバス博士は、お会いしたときは六十七歳であった。いつまでもお元気で永劫の道を歩みゆく偉大なる詩人として、街かどに、大自然のなかに、そして遠い祖先の精神のなかに、インドの″心″を求め、うたいつづけていただきたい。汲めどもつきぬ詩の泉は、そこにあるだろうと思うからである。

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