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日蓮大聖人・池田大作

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中国文芸界の指導者 周揚氏  

「私の人物観」(池田大作全集第21巻)

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2  一九〇八年生まれ。文芸理論家として中国革命の繋明期からその名を知られていた。革命軍が延安に本拠地を構えていた時代、延安大学校長、魯迅芸術院教授として文化活動を指導し、新中国成立後も、中国文芸界で最も大きな影響力をもっ指導者として活躍されてきた。
 「中国は社会主義の国であり、お国とは社会体制は違っているが、良い点は大いに学ばなければならない。中国の弱い面、欠点を率直に認めなければならない。真の友人になるには相手の長所を肯定して学び、短所を見たら誠実をもって相手に教えてあげることが大事だと思う」
 氏は、トルストイの『アンナ・カレーニナ』を中国語に翻訳したことでも知られている。シェークスピア、ゲーテなど西洋の作品にも明るい。
 こうした幅広い教養にもとづいた氏の評論が四人組の激しい掣肘せいちゅうを受けたのである。シェークスピア、ベートーベンなどの作品も非難の的となり、自由な活動が抑圧される風潮のなかで、氏は最大の標的とされ、「特務」「裏切者」「売国奴」などありとあらゆる罵倒を浴びせかけられた。
 古典や外国の文化からも学ぶべき点は学び、批判的な目は失わずに継承しようとする姿勢が、教条主義的な人びとには「拝外主義」と映り、そのために反発と攻撃を受けたのであろう。
 「周揚の仲間」「周揚の手先」ということで氏の友もまた迫害を受けたという。たとえば著名な作家、老舎ろうしゃは不遇な死に追いやられ、夏衍あえんは片足を折られた。
 周氏が翻訳したトルストイは私も最も好きな作家の一人である。そのことを言うと氏は「トルストイは偉大な作家であり、レーニンも、トルストイの宗教には賛成できないが、西方の最大の作家と評価していました」と語り、「″四人組″は『歴史的な虚無主義者』であった。彼らは毛主席の一つか二つの言葉を引用して大げさに宣伝して利用しただけです。どんなに偉大な人であっても、一定の範囲での発言は普遍的でない場合があります。たとえば釈尊にしても、マルクス、レーニンにしても、生涯に多くのことを言いましたが、なかには相反することを言っています。それは話す対象も、そのときの事情も違っているからです」と述べておられた。
 作家の城山三郎氏が訪中し、周氏に会ったとき、周氏は「私がやられたのは、私が言ったという片言隻句せきくのせいです。それも、私が言いもしない言葉を」と話されたという。
 長年獄に幽閉され、ありとあらゆる中傷を投げかけられてきた氏が、四人組の党閥時代を語るときは、さすがに温顔に厳しさがにじみでて〈るように思われた。
 夫人は、黙って対話に耳を傾けておられた。
 昔、音楽学校の校長をしていたという夫人もまた、どんな作家の筆もおよはないドラマチックな変転の人生を歩んでこられた。神でない人間の愚かさにほんろうされ、地獄の深淵をのぞいたこともあったにちがいないが、つつましやかな微笑をたたえたその穏やかな表情には、そうした労苦のかげりは少しも見えなかった。あの激しい中傷の嵐のなか、草昧そうまいの時節を周氏が生き抜き、忍んだ背後に、私は、この小柄な夫人の支えを見た。そんな思いをさそう風雪に耐えた和やかな表情が印象的であった。
 話は、『楚辞』、『唐詩』、『紅楼夢』などの中国の古典、トルストイ、ゲlテ、ユゴーなどの作品論に端を発して、そのような偉大な文学、芸術作品を生み出す社会環境へと移っていった。
 「経済的に立ち遅れたなかでも、魯迅のような偉大な作家が生まれている。反面、ただ社会が進歩したからといって優れた作品が生まれるとはかぎらない。私たちは偉大な作品が生まれる条件をともにつくりだしていかなければなりません。毛主席は『われわれは人類に、より大きな貢献をしなければならない』と語っておられますが、まだ今までの貢献では少ないのです」
 中国文学芸術界連合会副主席、中国作家協会副主席という要職にあって中国の未来を見つめてのその発言には、これからだという若々しきと新しい文芸復興への意欲が感じられた。
 別れにさいして周氏は周恩来総理の記念写真集と一枚の絵を贈ってくださった。
 紅梅が爛漫と咲き誇っている絵には「梅紅天地新」との題がしるされていた。老舎の詩句からとったもので、老舎の夫人・胡京青女史が筆をとったものと説明があった。
 老舎は、氷雪に閉ざされた厳冬の時代に世を去った。
 残された夫人は、巡りきた文芸の春の喜びをとの絵に込めたのであろうか。雪消時の小川に水があふれるように、伸びやかな筆づかいがみなぎっていた。
 氏は若き日、日本に留学したこともある。その後、日中は戦争に突入し、今回の来日は五十年ぶりということであった。
 その印象を聞くと、日本の近代化した様子と人びとの中日友好に対する熱意を肌で感じたと述べ、日本国民の責任感、学習意欲、勤勉性に学んでいきたいと語っておられた。
3  対談を終えて窓から横浜の海を見た。クレーンや船を配置して、海はまだ正午前の穏やかな外光のなかに広がっていた。
 港の静かな営みに目をやりながら、周氏は「五十年前の真夏、鎌倉の海水浴の帰りにここで一夜を過ごしたことがあるのです」と言われた。
 「当時、私は二十一歳でした」
 そう言って海を見つめる周氏の表情からは、文学、思想、人間観をめぐって対話を交わしたときにあった″カミソリ″の面影は消えて、懐かしい思い出に包まれているようでもあった。
 中国文壇きつての実力者という立場、一転して八年近いという幽閉の生活――氏の泰然たる姿は、目先のことにとらわれ、運不運や風の吹き回しにもてあそばれるような人生の愚かさを教えているようであった。
 そうした五十年の歳月を飲み込む、静まり返った広聞な海原が、氏の胸に波打っていたのかもしれない。
 深いやすらぎが目に宿っていた。

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