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日蓮大聖人・池田大作

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西欧きつての日本通ジャーナリスト ロベ…  

「私の人物観」(池田大作全集第21巻)

前後
2  ギラン氏は、最初の八年間の滞日生活を終えてパリに帰ると、″私の大好きなおクニさん″という長い手紙を彼女に出して、感謝を捧げたという。再来日した氏の家に働くおクニさんは、そのころ創価学会員となっている。
 「そのおクこさんの純真な信仰の姿を通して、私は学会を理解するようになったのです」と、ギラン氏は語ってくれた。
 おクニさんは、とのとき八十七歳であった。私は、この市井の一老婦人の振る舞いに感動した。思いがけず、日仏間に友情の灯をともしていた尊い一庶民がいたのである。
 「貴女の尊敬するロベール・ギラン先生と楽しく会見しました。昔の懐かしいお話もお聞きしました。いついつまでもお達者で……」
 私は自分の著書の扉にこうしたためて、贈らせていただくことにした。そして心から嬉しそうに語るギラン氏の様子に、温かい好感をおぼえた。
3  ギラン氏と、私は二回お会いしている。最初は一九六七年六月。二度目は、それから七年後の一九七四年十二月のことであった。
 「インタビューには、どのくらい時間をお願いできるのでしょうか」
 折り目正しく初めての取材を切り出してこられたときの、丁寧な口調が思い起こされる。会った瞬間に、私は、人間的な好感を強く印象づけられていた。名ジャーナリストらしい俊敏さを漂わせながらも、同時に親しげで、庶民的な肌合いを感じさせるものがある。腰が低く、円満な人柄がうかがえた。ジャーナリストにときにありがちな、翳りのある皮肉な目や表情を見せず、話しぶりにも針を含んだようなところがない。
 ――ジャーナリストとして自分のモットーとしていることは何ですか。
 ――公平で、独立した精神をもつこと。政府の表面的な説明や、一般民衆の幻想を超越して現実を見るすべを知っていること。そして、その現実を大胆に公表すること……。
 西欧きつての極東、日本通ジャーナリストとして知られるギラン氏は、私の質問に、こう答えている。この言葉のなかに、ギラン氏一流のジャーナリスト魂が躍如としている。
 一九五四年、ディエンビエンフー。インドシナ戦争における天王山の戦いで、フランス本国政府はこの城塞の難攻不落を誇示し、現地司令官はフランス軍の勝利を記者団に言い切った。しかし、ギラン記者は「ル・モンド」紙に、敗北の可能性を予見する記事を送り、事実、そのとおりになった。それは官製発表をうのみにせず、兵士たちのなまの声に耳をすまし、自ら納得のいくまで分析を徹底したからであった。
 その冷徹在眼差しをもって観察した日本、およびアジアのニュースを、ざっと半世紀にわたって、ギラン氏はフランスに送りつづけた。日中戦争を上海特派員として目撃したのを皮切りに、東南アジアの重大事件のほとんどを現場で体験した。毛沢東軍の上海入城、朝鮮戦争、金門島の危機、バンドン会議……。しかし、とりわけ日本との関わりが長く、思い出も深いようである。
4  ギラン氏とは互いに質問状を発して、そのやりとりの内容を総合雑誌に発表したこともある。
 日本人は、論理(ロジック)というものを学ぶべきだ。日本的思考はきわめて非理性的だ――と。これは「国際人」としての資格を私が問うたことに対する答えである。また、日本人の行動様式の特徴として「過度の無鉄砲さ」を挙げた。それが「まず行動に駆りたて、しかるのちに反省する」というのである。
 こうした見方は、ギラン氏が、太平洋戦争における軍国主義や、戦後経済の海外進出などを目撃してきたことから生まれたもののようである。
 この点、私は、へンリー・キッシンジャー氏が「日本は哲学的確信なしに動く国だ」と言ったことを思い出す。ギラン氏の指摘と共通する点があるようである。
 イデオロギーの問題では、左右のいずれが日本に適するだろうか。この点については、「日本には、穏健な社会主義ないし中道主義的なものがよいと思う」とのことであった。
 また、西洋化のあまり、日本の良いところを失つてはならない、というのが、その一貫した主張であった。
 「今、私は″日本の崩壊″という論文を書くことを考えています。そのなかで、日本は外国の文化、風俗、習慣の導入に熱心のあまり、結局、日本の良いところをつぶしていく。いまや″日本″はなくなろうとしています。日本語すら失われてしまうのではないか」――初めて会ったとき、ギラン氏はそう慨嘆していた。
 「古い日本」と「新しい日本」の二重構造をいたるところに見いだし、両者の調和ある発展がなければ、というのが氏の考え方である。
 私も同感である。新しい変化が私たちにいかなる意味をもつかを知るためには、まず私たちの伝統の重みをしっかりと掴まねばならないと思う。そのうえで、古来の文化の長所を残さねばなるまい。
 それはともかく、ギラン氏が日本に寄せる愛着は深く強い。「ル・モンド」紙がパリ本社での重役のイスを提供しようとしたとき、氏はそれを断わったという。役員としてパリにいるより、地位は低くとも特派員として日本に行きたい、という考えからである。
 戦中、戦後を通して日本人の不幸と苦悩をともに分かち合った――そこに、ギラン氏は自分と日本との一体感が根ざしていると考えている。暗い軍国主義の時代も、東京大空襲も体験している。そして戦後の廃雄のなかから立ち上がっていった日本人の勇気と勤勉さ、苦しいときにも失われないほほえみ、あるいは美しい自然……。それらを、氏は心から愛惜する。浅草、深川といった東京の庶民の町を好んだ。ドヤ街や農漁村にも暮らして、日本社会の本当の姿をつかもうとした。カネ志向ではいけない。貧しく、古い日本のほうを私は好む――ギラン氏はそう言う。
 豊富な日本体験が、アジア諸国を駆けめぐった幅広い視野にも支えられて、説得力のある″日本論″をつくりあげた。その文章はフランス人らしい明噺さをもち、事実を鋭利な刃物で切り出していくようなきりっとした迫力がある。が、同時に、ときには詩情もあり、人間を見る温かな目が感じられる。
5  私は、ギラン氏のインタビューを受けてまも在く、おクニさんにお会いした。そのときの清らかな姿は、私の胸深く焼きついている。
 私は無学な女だが、よその国の人を戦争に巻き込んではいけない、と私なりにがんばった――戦時中を振り返りながら、そう語っていたというおクニさん。当時の権力者よりもはるかに賢明で健全な英知ではないだろうか。そのおクニさんは、九十歳を越えてなお健在でおられるようである。
 冷徹在ジャーナリストに宿るその″温かさ″は、あのつつましやかな明治女性″おクニさん″を思いやる心情と一脈通い合うものがあるように思われる。ギラン氏は、日本人以上に日本人の″心″がわかる人なのかもしれない。おクニさんのお孫さんが、近くパリのギラン氏を訪れるという話も耳にした。友情は、世代を超えてもなおつづいているようである。
 ギラン氏は、最近また来日され、講演などをされたようである。お会いする機会はなかったが、七十一歳の今日もなお評論活動の第一線でお元気に活躍されている様子は、なによりと思う。

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