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日蓮大聖人・池田大作

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庶民の肌合いをもっ経済人 松下幸之助氏…  

「私の人物観」(池田大作全集第21巻)

前後
1  私は松下幸之助さんの人柄が大好きである。松下さんとの交誼の端緒は、十二年ほど前にさかのぼる。たしか昭和四十二年十月十五日、千駄ヶ谷の国立競技場で聞かれた学会の「東京文化祭」であった。そのときは、親しくごあいさつすることはできなかった。
 次に松下さんのお姿を持見したのは、三年後の四十五年初冬、東大阪市立中央体育館での「関西文化祭」であった。このとき、松下さんは途中で静かに私の席までおいでくださり、しゃがみながら「これから最終便で東京へまいりますので……」と丁重なあいさつをされた。東京に所用があり、時間のないなかを出席されていたのである。退席されたのは、最終の飛行便に間に合わせるためであった。
 まだ松下さんと直接の触れ合いはなかったが、なにか心のなかに通じ合うものが芽生え、育っていった
 翌年(昭和四十六年)の四月、野点の席をともにする機会があった。
 松下さんとゆっくり、お会いしたのは、このときが最初である。私たちは初めて、歓談のひとときを過ごした。「過日の一刻は、私にとりましでも、後世に残る貴重な歴史の日となると信じております」――私は、礼状に、率直な感慨をしたためた。松下さんからもど丁重なる手紙をいただいた。お手紙はすべていまだ大切に保管している。
 その年の初冬には、京都にある松下さんの茶室、真々庵にご招待いただいた。奥さまも同席してくださった。閑雅な庭園のたたずまいや、松下さん自らの、お点前を楽しみながら、その含蓄のある言葉をうかがったことが、きのうのことのように思い出される。
 以後、何度となくお会いする機会があり、会えば必ず学ぶところがあった。松下さんとの往復書簡が始まったのもとのころである。
 まず評して″立志伝中の雄″であろう松下さんが、誠意と誠実そのものの人柄であることは驚くばかりである。いささかも礼節を粗略にされない。
 昭和四十八年の春、私は大阪府門真の松下電器産業本社に見学のお招きをうけた。当日は、最新の設備が整えられた工場などの行程を松下さん自ら案内してくださり、懇談の席では、今日までの苦労談などを楽しく拝聴した。
 後に仄聞そくぶんしたことだが、松下さんは健康がかんばしくなかったのもかえりみず、私たちの見学予定コースを、事前に二度ほど自分の足で歩き、周囲の人に指示をし、自らチリを拾われた、ともうかがった。隅々までに万全の態勢で陣頭指揮し、真心をもって迎えてくださったのである。
2  昭和五十三年九月、私は四度目の中国訪問に、大阪空港から飛び立った。その折、松下さんがわざわざ空港まで見送りに駆けつけてくださった。お疲れの様子で声もほとんど聞きとれないほどであった。
 「ぜひ中国へ松下先生もおいでになってください」と申し上げた。
 「必ずいつか行くつもりです」
 聞きとりにくいなかにも厳とした響きが胸に残った。年齢も今では八十歳を越えられ、枯淡の味のなかに、さすがにその目や物腰には経済界の大御所らしく人を惹きつけるものがある。
 「私は運がよかった。運がいいと自分で決めている。そう思っていると開いていける」とも語っておられた。松下さんの波瀾に満ちた″成功譚″は、あまりにも有名であるが、私もその片鱗をうかがったことがある。どんな苦境に陥ってもダメだと思ったことがない」とのことであった。小学校を中退して十歳で奉公に出て以来、数々の困難にも、不屈の精神力と努力とで乗り切ってこられた。
 「小僧時代には、血の小便の出るほど苦労した。人間、若いころから苦労しなければモノになりませんよ。苦労が肝心です」――松下さんの一言は、苦節を耐えぬいた経験に裏打ちされているだけに重みがある。私は、この話を、創価学会の若い世代にも何度か言い聞かせたものである。
 話し上手といえば話し上手、聞き上手といえば聞き上手である。淡々とした言々句々のなかにも、さりげなく深く真理を語れる人である。一を聴いて十を知る人とはこのような方であろう。今の日本には得がたい人物であることを、私は直観していた。
 指導者は、九〇パーセント、人の言うことを聴かなくてはいけない。この点、当世の指導者は失格である――ということも話し合ったことがある。「そうでんな。私たちの切実な話は聴いてくれまへんわな」と嘆いておられた。事実、私より三十も年上で、経験も豊かな松下さんが、私のような若輩者の言葉にもじっと耳を傾けてくださる。その謙虚な姿に、深く心打たれるものがあった。
 人事をどうみるか、後継をどう育てるか、などの人材論で意見を求められたり、求めたりしたものであった。そして私なりに、世襲でなく実力主義でいくべきことなどを所信のままにお話しした記憶もある。
3  私は松下さんに、お会いするのが、いつも大きな楽しみである。お会いして一固たりとも無価値なときはなかったからである。一つ一つに深い歴史を刻むことができた。別れるときはいつもさわやかな気持ちになれる方である。
 広く世の視聴を集めている「松下政経塾」の構想を、松下さんご自身からうけたまわったのは、先に述べた真々庵しんしんあんの茶席であった。今(昭和五十四年)から八年前のことである。松下さんの心に「塾」構想が発酵しはじめたころであったろうか。
 「それは松下先生のおやりになるべき仕事です。日本の将来を担う人材育成のために、ぜひおやりになってください」
 私は、強くそうお勧めした記憶がある。その後、折にふれてこのことが私たちの話題にのぼった。
 「日本は政治が遅れている。いい政治家をつくらなければなりません。それには、いい人を育でなければ……」
 松下さんは、一個の企業利益などという俗念はとっくに乗り越えて、国家、世界の行く手を憂える真情に満ちておられる。経済人としても、いわゆる政・官・財″三位一体″といわれるエスタブリッシュメントとは一歩距離をおいた独歩の人である。また、手がけられている仕事も、軍事関係などとは縁遠い、庶民の生活の匂いのする弱電機器が主体である。松下さんの信条に私は共感する。
 そして、自分の人生の帰着するところ、人間教育、人材育成に全力を注ぎたい、との力強い気構えをたたえておられるのだった。
 お会いするたびに、私もいくつかの教育機関を創設した経験から、感ずるままをお話しした。一期生というものは集める側の熱意もあって、比較的いい人が集まる。したがって、毎年、一期生をとる決心であたること。一期生を鍛え抜き、その一期生が母校に帰ってきて後輩を訓練する。そこから人材を繰り返し広げて、良き伝統が築かれていく。吉田松陰も一期生しかつくっていない――等々。
 また、塾の構想について、十項目ほどの質問もいただいたので、できるかぎりお答えしたつもりである。とくに、国家意識の強調をなるべく避け、″国家″よりも″人間″を前面に主張したほうがよいのではないか、などを僭越ながら申し上げた。
 昭和五十三年九月には「松下政経塾」の基本構想を発表したという書簡をいただき、その年の暮れには、塾運営にかける不退転の決意を穏やかな行文ににじませた書簡もいただいた。
 「松下政経塾」の成否のカギ――それは、唐突な言い方かもしれないが、私は、松下さんご自身の健康にかかっているように思われてならない。
 「私は百歳まで生きようと思っています」と明るい表情で言われていたことが思い出される。「人間は百六十歳まで生きられるそうで、なんでもコーカサス地方では、その半分の八十歳を″半寿祝い″として祝う風習があるとのこと。すると私は、ようやく人生の半分。もう半分生きねば……」などと長寿の決意をうかがったこともある。
 経済界と、精神界と――。私たちの立場は異なる。しかし″人間・松下″のめざすところと、それにかける情熱とは、すべての指導者の胸中に高く共鳴しているといってよいのではないだろうか。
 時代が人物を生み、人物が時代をつくるとすれば、昭和が生んだ優れた経済人、松下さんには、日本のためにも、世界のためにも、さらに長寿であっていただきたい。
 そして、松下さんが、学歴も問わず、家柄も問わず、一個の男子として自身の信念で偉業を成し遂げられたと同じように、これからも多くの次代を担う青年たちもまた、一人の人間として、それぞれの偉業を成し遂げゆくことを祈ってやまない。その先達の一人が松下さんであると思うからだ。

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