Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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″総体革命″を語る″インドの良心″ J…  

「私の人物観」(池田大作全集第21巻)

前後
2  その日、私ども訪印団一行は、ニューデリーのパラム空港を後に、機窓はるかに白雪に輝くヒマラヤの峰々を眺めながら、ガンジス川中流の町パトナへ向かった。途中、ラクノウ空港に立ち寄り、さらに小一時間ほど飛んで機が高度を下げはじめると、視界いっぱいに広がる緑の大地に、家々の茶色い屋根やクリーム色の壁が姿を現した。その昔″花の都″――パータリプトラーと称されたビハール州の州都パトナは、柔らかな陽光に包まれて落ち着いたたたずまいを見せていた。
 近代都市ニューデリーを発ってきたばかりの者には、パトナの街には、ほっとさせるようなのどかさが漂っていた。白牛が背中にカラスを遊ばせながら道端の草を食む。ワラをうずたかく積んだ二頭立ての牛車が、鈴の音も涼やかに行く。道行く女性のサリー姿が、ニューデリーで見たよりいっそう色彩鮮やかである。町とはいっても、田園の空気と香りがある。
 日本の初夏を思わせる日差しのなかを、私はナラヤン氏の私邸に向かった。土壁の家が立ち並ぶ路地裏の入りくんだ道をしばらく行き、氏の白い石造りの家に着いたのは、午後四時ちょっと前であった。二階に上がると廊下の突き当たりの肘掛け椅子にナラヤン氏が待っていた。大輪の花のレイを持って、にこやかな笑顔で迎えてくれた。その前に、秘書や随行者のために数脚の椅子が並べられている。すぐ脇に粗末な布地のカーテンが下がり、その向こうにベッドがあるらしい。持病の腎臓疾患が悪化して週に二、三回は透析しているとも聞いていた。応接室がないらしかったが、氏の質素な生活ぶりが直に伝わってくるような対談場所がかえって好ましかった。侍医もそばにつききりである。
 茶色のガウンを着ていた。一語一語かみしめるような話しぶりである。その低い声は、七十六歳の高齢と、その闘病生活を感じさせた。しかし長年の革命闘争で鍛えられた頭脳は鋭く、確かであった。銀ぶちの眼鏡の奥に柔和な眼差しをたたえながら、氏は静かに″真実″を語った。
 話題は縦横に広がったガンジーの高弟であった氏は、ガンジーとの出会いを懐かしげに語った。非暴力主義抵抗の理念も語りつづけた。
3  氏が政党政治に見切りをつけて政界から身を引いてから二十数年を経ていたが、社会運動家としての名声は″インドの良心″と言われるまでに広く民衆に浸透している。
 氏のモットーを尋ねたとき、今日までの風雪に満ちた思想遍歴を氏は簡略に語った。そして、
 「今では、やはりマハトマ・ガンジーの思想が、私の生活信条です」
 と答えた。ここでもインド指導層の精神的支柱である、ガンジーの巨大な影像があった。
 ナラヤン氏のイデオロギー遍歴は、民族独立運動に始まり、共産主義による暴力革命、ついで民主社会主義へと移り、最後にガンジーの高弟ビノバ・バーべによって創始されたボウダン運動(土地の自発的な提供を促し、究極的には農村を村民全体で共有することを目的とする)に共鳴していった。
 そのなかにガンジー主義の基本路線であるサルボウダヤ運動(すべての階層の人びとの向上)の具体的な実践法を見いだしたのである。
 暴力革命の思想をとってガンジーにひとたびは背を向けた彼も、結局はインドの精神的大地をなすガンジーのふところに、再び帰った。そして、イデオロギーの遍歴はあっても、彼の追求した目標――インド全民衆階層の真の平等化と幸福――に変わりはなかったと思うのである。
 彼は、さらに進んで″総体革命(トータル・レボリューション)″の概念を打ち出している。それは、ガンジー主義を社会変革への実践法にまで昇華させようとする彼なりの思想であるように思えた。
4  「私も以前から総体革命を提唱してきました」と私が言うと、氏は、
 「本当ですか」
 と驚いた表情を見せたそして、
 「その根底に一人ひとりの人間革命を据え、そこから政治、教育、社会、文化各分野の変革も可能になると考えるのですが」
 と問うてみた。氏は、
 「イエス」「イエス」
 とうなずきながら耳をかたむけていたが、最後に、
 「私は全面的に賛成です」
 と力を込めて言った。私たちは思わず手を握り合った
 私はそのとき、ナラヤン氏の唱える「総体革命」ということの″核″の部分が直感できたような気がした。
 「総体革命」とは、おそらく現代インドの抱える巨大なジレンマを前にした良心の模索というか、ぎりぎりの選択なのである、と。
5  私は、あえてジレンマと言いたい。インドは、物質文明の飽和に疲れた先進諸国の人びとを魅了してやまぬ、豊かな精神の水脈をたたえている同時に、貧困や飢餓、何千年の歴史の垢にまみれた階級制度などが、それと隣り合わせに深く根を張っている国でもある。ガンジス川で身を清め、黙然と瞑想する人を見て、自らの理解の枠を超えた宗教的世界に、ノスタルジアをかきたてるだけでは、偏った見方であろう。逆に、オールドデリーの、あの圧倒されるような群衆の雑踏と喧騒のどこに、″魂″や″精神″があるのかといぶかる目も、私はもたない。どんなに生活に追われているようにみえても、近代のものさしでは測ることのできないある種の豊かさが、したたかに生きているとも信じている。
 両方とも、つまり最古の伝統を誇る精神文明の継承も現実生活の物的保障も、まぎれもなくインド的課題なのだ。ただ、現在の亀裂の大きさは、両者が秩序だって補完、融合し合うことを、著しく困難にしている。そこには、三百数十年にわたるイギリスによる植民地支配の爪跡が、深く影を落としていることも事実である。心ある人びとは、改めてマハトマ・ガンジー、ネルー亡きあとの、新たな″インドの道″を求めて、必死の努力をつづけているのである。氏の『獄中日記』の抄訳に目をとおしながら、私は改めて二月十一日の感慨を呼び起こした。日記のなかに、自分の来し方を振り返った、次のようなくだりがある。
6  「革命の虫は、私をマルキシズムにおもむかせ、それから民族独立運動を経て民主社会主義へ、次にビノバジ(ビノバ・バーベ)の愛による非暴力革命へと転じていった。ビノバジの列に加わる前に、彼と議論したことによって、私は次のような確信に達したのである。
 ――ビノバジは単に土地の再分配に関心をもっているのではない。それだけではなく、人間と社会の総体的変革に関心をもっているのだ、と。それを私は、かねて二重革命と呼んでいた。つまり、人間革命を経ての社会革命であると」
 ナラヤン氏の精神の遍歴と帰結が、さりげなく語られていて興味深い。氏によれば「総体革命」とは、社会、経済、政治、文化、思想ないし知識、教育、そして精神の七つの柱を組み合わせたものである。もとよりその七つは確定的なものではなく、増やすことも減らすこともできる。たとえば文化革命に教育、思想の革命を含ませるというふうに。
 しかし、私が興味をおぼえたのは、その組み合わせ方、いうなれば革命を現実に推し進めていくさいの″回路″であった。
 「人間革命を経ての社会革命」(ソシアル・レボリューション・スルー・ヒューマン・レボリューション)――。
 それは、若くしてマルクスの革命思想にふれ、一時は師ガンジーの非暴力、不服従運動に反対して武力革命を唱え、実践もし、長じて再び、インドの精神的大地ともいうべき師のふところに帰った、との″良心″の波瀾に富む人生行路がたどりついた終着点であった。
 ナラヤン氏の肺腑の訴えを、理想論として一笑に付す人もいるかもしれない。提唱の当初、インドでも一部、その種の批判がなされたという。しかし私は、批判の前に、なべて十八年におよぶ獄中生活に裏づけられた体験の蓄積に目を注ぐべきだと言いたい。そこにみられる屈折した来歴は、インドのジレンマの大きさと深さとを物語ってあまりある。
 「総体革命」は、論としては未成熟な面も多分にあり、実践的にも試行錯誤を重ねている段階といってよいであろう。にもかかわらず、私がそこに、良心の発露であるぎりぎりの選択を感じたのは、いつに、数十年におよぶ模索の歳月の重みによる。理論面、実践面での未完成は、課題の困難さが、安易に解答を求めることを許さないからだ。短兵急に解決へと走る行き方は、多くのものを犠牲にしていくことを、貴重な体験の贖いをもって、氏は知悉しているのではなかろうか。急進主義的な非難に対して、氏は、師ガンジーとともに、静かに「善いことというものは、カタツムリの速度で動くものである」との言葉を返すにちがいない。
7  政治権力への野心を離れた氏。私邸も公共施設として開放し質素に暮らしゆく老翁。会談中、どこからまぎれてきたのか廊下の壁をリスが走るのを見て、いかにも民衆に開放されたナラヤン邸らしく、ほほえましく思った。
 ナラヤン氏が不帰の客となったのは、その年(一九七九年)の十月八日であった。私が氏の自宅を訪問してから半年余り後のことである。氏の逝去を知ったとき、多くのインドの民はその別れに涙し、インド議会は、その第一報に総立ちになったとも聞いている。まさに″インドの良心″の劇的な死であったといってよい。私も、切々の哀悼の意を込めて、弔電を打った。

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