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日蓮大聖人・池田大作

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歴史と人間を求めて行動する 井上精氏  

「私の人物観」(池田大作全集第21巻)

前後
1  萩の花が咲きこぼれる季節となった。
 井上靖さんも、この花の可憐さ、清楚さが好きだと、かつて私との往復書簡に述べておられた。私も萩の花が大好きである。
 双方がやりとりした書簡は『四季の雁書 往復書簡』(潮出版社)として一冊の本にまとめられている。その最初の私からの往信は、四年前(一九七五年)の春のことであった。その後、時折、手にする氏からの書簡は、季節の風や花の香りに包まれながら、自然を、文学を、社会を、あるいは人間の運命などを語りかけてくださった。ときには人生の機徴が星のごとく輝き、それがいつも慌しく動き回っていた私には、心洗われる思いであった。
 以来、萩もいくたびか咲いては散りこぼれたわけである。今、書簡集を前に、卓上の花筒に挿してある萩の花枝を眺めていると、井上さんの面影をつい身近に見る思いがしてならない。
 それ以前に私は、井上さんには二度お目にかかっている。気さくで飾らない人柄がまことに鮮烈にうつった。正直で、ありのままに胸襟を聞きながら、自分の欠点さえ、さらけだして語りゆくその人格に、私は深くひかれた。それでいてか″人の心″といったものがいつもたたえられている。いわば″人間対人間″の付き合いをされる人であろうと印象づけられた。
 明るく清々しい人間性は、書面にもおのずから濠み出ているようであった。
2  井上さんはつい先日も、いくたびめかの西域旅行から帰還されたばかりで、その模様のいくぶんかは、同行した私の若い友人からも伝聞した。七十を越えられて、さぞ難儀な道中であったことだろうと偲ばれたが、そのことを考えながら、次のような往復書簡中の言葉が思い出された。
 ――ああ、いかに感歎しても感歎しきれぬものは、天上の星の輝きと、わが心の内なる道徳律。
 これは、井上さんが高等学校の学生のころ、友人より聞いたカント『実践理性批判』の一句で、それから長く心の内に生きつづけていたものであるという。西域に傾ける井上さんの思いが並々ならぬものであることはよく知られているが、そのここと、こういう宇宙自然への共感や、人間存在の肯定的な受け止め方とは、決して無縁ではあるまいと思われる。
 高等学校の時代から、中央アジアの探検記はもちろんのこと西域に関する書物を、学校の勉強もそっちのけで読み耽ったそうである。そして、井上さんも一度は西域に行ってみたい、と熱願するようになった。
 それから数十年を経て何度か西域を訪れ、本年(一九七九年)八月の旅行では、中国新彊ウイグル自治区のカシュガルやヤルカンド、そしてカラコルムの仙峡に分け入って、世界の不老長寿の秘境フンザにも足跡をとどめたという。そして、この遠征をもって、ローマに発し、長安、奈良に至る東西文明の交渉路をひととおり概観し終わり、いわゆるシルクロードにかかわる都邑は百か所ほど歩いた、とのことである。
3  ″烈日″という言葉が好きだ――往復書簡で、こう述べられている。
 「烈しく照りつける太陽に惹かれる気持は、ふしぎなことですが、六十代になってから、年々強くなっているように思われます」(前出)と。
 また「失意の日も、得意の日も、それから長い歳月が経つと、すっかり消えてしまい、真剣に烈しく生きた時の思いだけが、いかに小さくても、消えないで残っている」(前出)とも書かれている。
 私は、この文言に触れて同じような感慨に満たされたことが、いま思い出される。
 砂漠のほとりや雪山の山懐に眠る廃墟をいつの日か訪ねてみたい、という憧憬のほどは、それを成し遂げての「西域四題」とした和歌にもはっきり読みとられる。
  古希の年 天山越えぬ
  機影かげひとつ
  命にてこそ ただに見守る
  
  タクラマカンの 砂を手にとり
  拝みて
  若き日の夢 果し終りぬ
4  井上さんの歴史物、西域物は、純文学とか通俗小説とかの枠を取り払ったスケールの大きさ、奥深さがあり、文句なしに面白い。その心奥には、歴史に立ち向かう姿勢が厳として屹立している。
 一九七四年三月にお会いしたとき、このことが話題に出た。私は、「歴史だけは、真摯な姿勢で勉強しなさい」と、恩師戸田会長から教えられていたことをお話しして、正確な史観に基づくことが創作の前提にならねばと思うが、とおたずねした。すると井上さんは、歴史を、才智に任せて″手玉にとる″ことの危険性を指摘されたうえで、
 「歴史は一番怖いものです」
 と、ぽつりと言われた。その戒心のほどがしのばれるような一言だった。
 歴史の断片がもっ本当の意味の重さと奥行きの深さ――。それに対する畏敬にも似た心をもちつづける、驚嘆すべき若さ、精神の弾性。
 そこから歴史と人間を求めて旅する一人の″行動する作家″が生まれているのだと思えてならない。
5  井上さんは、一見、青銅のサビを思わせるような光をただよわせ、今なお、七十三歳で、専門家も顔負けの柔軟体操をやっておられるとうかがった。元来、高校時代に柔道で鍛えた頑強な体力はそなわっている。そのうえに、いまもって早朝と、就寝前の体操を怠らないのだと聞いた。
 けれども、体力だけではないと思う。やはり万里蒼波を蹴って行くがごとき井上さんの若々しい生命を改めて思うのである。
 ″生涯青春″という言葉を、私が往復書簡に書きおくつたところ、甚く共感されて、「そういう生き方でなかったら、いかなる仕事もできないということを、私自身、この年齢になって痛感しております」(前出)と返書にしるされていた。また、あるときの対談では「死ぬまで勝負なんだと思う」と漏らされていたことも思い出される。
 生涯青春――それは青春時代にいだいた純一な夢を、いまもって追いつづける井上さんにこそふさわしい言葉であろう。
6  井上さんは、中国を、もう十いくたびか訪問されていて、日中間の友好促進に注がれる情熱にも並々ならぬものがある。私との対談の席でもこのことを話題にしたことがあったが、相互理解と信頼の大切さ、とりわけ文化人の良識について襟を正して話されていた。当時は日中関係の微妙な時期だから、中国を訪れたとしても好意的に書くことが大切で、それを裏切るような文化人の姿勢は首肯できない、という指摘であった。
 実際に井上さん自身、信義の厚い付き合い方をされており、過日、中国の作家代表団が周揚氏を団長として十四年ぶりに来日したさいにも、歓迎の責任者として大変にお骨折りされたようである。
7  ――私は一人の文学の徒として、いつでも永遠に触れたところで仕事をしていたい気持でおります。そして永遠を信じ、人間を信じ、人間が造る社会を信じ……。
 往復書簡でこんなふうに詠嘆されている一節にも、印象深い味わいがあった。
 思えば、いつでも永遠に触れたところで仕事をしたい、という井上さんの内なる衝動こそ、その文学者としての魂を導き、引き立ててきた原動力であったのかもしれない。あるいは西域に寄せるひたむきな思慕を解くカギも、私にはここにあると思えた。
 萩の花がぼろぼろと散りきってしまうころ、井上さんは、再び西域をさして流れるように旅に出ておられるはずである。幾多の英雄が通り過ぎた河西の回廊を、今はジープを疾駆させて西へ向かっていることであろう。あるいは鳴沙山の彼方に満天の星を仰ぎつつ、文明の過去を跡づけておられるかもしれない。永遠の鼓動にふれるために、あるいは井上さん自身の内に永遠の鼓動を聴くために――。

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