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日蓮大聖人・池田大作

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大学を″文化の家″に ゲバラ・サンマル…  

「私の人物観」(池田大作全集第21巻)

前後
1  ペルーでは夏の末、秋の初めにあたる三月末のことであった。
 この年、一九七四年に訪れた首都リマの空は、八年前に見たと同じく晴れ渡っていた。街の辻々を飾る花壇は残暑の日をうけてほほえみかけるように色鮮やかである。所々にいかにも熱国らしい丈高いサボテンや棕櫚しゅろの並木があって、日盛りの街路に涼しげな影を落としていた。
 リマには、ほとんど降雨がない。そのままにしておけば、やがて砂漠化してしまうような地味である。それを人びとはアンデスの高地から水を引き、慈しみ深く根気よく、緑を育てているのである。
 ペルーといえば、かつてこの地に栄えたインカ文明を誰もが想起する。この首都リマも、スペイン風の建物が並み連なっているけれども、なお市中にはインカ時代の遺跡が散在している。道行く人びとの表情には、やや物案じ顔な愁いの影があり、遠い祖先の血を思わせる。
 ペルー訪問の目的の一つは、教育交流にあった。私は市内にあるサンマルコス大学事務局に、総長のファン・デ・ディオス・ゲバラ博士を訪ねた。博士をはじめフーリオ・マノール副総長など教授会の主立ったメンバーが歓迎してくださった。事務局は、ガラス張りが目立つ近代的なビルの中にある。私たちの会談は、総長室に隣接する会議室で始まった。
 博士は化学者と聞いていた。科学者らしい沈着さがにじみでており、銀髪に黒ぶちの眼鏡がよく似合う。が、眼差しのやさしい、温厚な好紳士である。当時六十四歳であられた。
 私たちは、さっそく細長い会議用テーブルの両側に向かい合って着席した。
 「何百年の文化は、大学の思想に由来します」
 大学の本分という観点から、総長はこう切り出した。私は、スペイン語とは概して調子の強いものと解していた。しかし、博士のスペイン語は、あくまでも冷静沈着な口調である。
 サンマルコス大学の創立は一五五一年、ペルーがスペイン支配下に入ってまもなくのことであった。南米最古の歴史を誇る総合大学である。冒頭の総長の発言は、ここ数世紀のペルーにさまざまな光や影を投げかけてきた大学の歴史を背負っていた。
 「大学の使命は精神的価値創造にある。そこに最大の関心を払わねばなりません。ペルーの未来を信じ、望みをかけ、サンマルコス大学はペルーの″文化の家″として機能していきます」
 その含蓄ある言葉に耳を傾けながら、私の脳裏にふと一つの光景が浮かんだ。
 それはプエブロ・ホーベン(若い街)と呼びならわされているリマの大衆街の光景である。そこに立ち並ぶ粗末な泥土塗りの家並みは多くインディオの人たちの住居であり、古くはインカ文明を担った先人たちとの″落差″を感じないではいられなかった。あの往時の活力は、幾世紀にもわたるスペインによる纂奪と征服のなかで撓められてしまったのであろうか。
 「インディへニスモという新しい動きをご存じですか」――一人の教授が発言した。
 一口に言えば、民衆のなかに眠るペルー人としての力を呼び醒ましていこうという運動だという。あの驚異的なインカ文明に新しい精神の淵源を求め、現在との融合のうえにみずみずしい活力を醸成していこうとする試みである。
 インカ文明を世界最古の″社会主義″という学者もある。富の分配や生産、労働が平等に行われ、鉄器こそ知られていなかったが、庶民生活のなかにまで金、銀、銅がふんだんに使われていた。その絢爛たる民族の遺産を現代に生かそうという発想が、私たちの会談の席上で強調された。こうした熱っぽい議論に聴き入っていると、「大学は″文化の家″」という総長の言葉が実感をもって迫ってくるのであった。
 この南米最古の大学が、今、文化の再生という困難な未来に向かって模索を開始しているのである。
 過去と現在の融合・昇華といういわば″歴史の実験″のための人材の宝庫となるものが、ここサンマルコス大学であろう。端正なゲバラ博士の顔立ちにも、先住民族の血を継ぐ教授たちの精悍な表情にも、その自負と良心とが読みとれた。
 この由緒ある大学も、当時、大学改革の要求の波にもまれていたようである。大学運営の参加問題などで相当な論議があったようだ。私が教授と学生との″断絶″について意見を求めると、「やはり第一は対話です。これが絶えず行われている大学には前進がある。第二は学生が大学の諸行事に責任をもって参加すること。第三に政治的要素はキャンパスに持ち込まない……」
 博士の見解は″教える側″″教えられる側″の壁を超えて、両者のあいだにまず人間としての対話が必要であることを指摘したものであり、私は共感を覚えた。博士は言葉を継いだ。
 「大学は、ただ科学や知識を広めるだけではいけない。その役割の第一は、まず人間形成にあり、それも人間による科学技術が人間の価値を守るための人間形成です」
 たしかに、人間性を失い硬直化した大学がみずみずしい知性の糧を供給できず、ただ知識のカン詰めしか売り与えられなくなってしまったところに、大学問題の一因はあるといえるだろう。
 会議の席上では、このほかに学生自治会の運営や教授自身の再教育の問題、学生寮の在り方などが話題になった。私からは、「教育国連」や「世界大学総長会議」の構想について所論を述べさせてもらった。
 終わりに、出席した各教授に、日本の若者たちのために、日ごろのモットーとしていることを書きつけて後日届けていただくようにお願いし、博士と固く握手を交わして別れた。
 明くる日、ペルー滞在の最後の夜のことであった。じつはペルーでの諸行事の連続で、私は、まことに疲れていた。なかでもペルーのメンバーとの記念撮影では、炎天下の広場で皆にコーラを配り、私もかなり飲んだことがたたって、腹をこわしてしまった。丸一日、何も食べることができない腹痛の連続であった。ことによると、入院か――とも、周りの人びとは心配した。
 ――その日の夕刻、私の宿舎に一人の思いがけない来客があった。それがゲバラ博士であった。
 「お体がすぐれないと聞いて心配で訪ねました。ご迷惑とも思ったのですが……」
 博士は、こう言うと、すぐにも辞去される様子であった。前日、大学で一時間ほどお目にかかっただけだが、私には、このご厚意が嬉しかった。
 それからまもなく、博士を宿舎の玄関に送った妻から、玄関に総長夫人もきておられたことを聞いた。どうしても見舞いをしたく、非礼も顧みずお邪魔して申し訳ないという夫人からの伝言であった。
 各教授の方々から寄せられたモットーのメモを、そっと係りに渡してくださった。
 「教授も学生も大衆とともに歩み、人類の幸福と平和と英知という目標に到達するまでは、一切の困難を乗り越えるべきである」
 「結論していえば、社会奉仕することこそ、生命それ自体を尊重する唯一の方法である」
 どのモットーも学問的使命を社会と時代と民衆に開いたものであり、感銘深かった。
 「一つのことをきょうやるほうが、あした百のことをやるよりも、はるかに価値がある」というのもあった。
 私は、これらのモットーを必ず日本の若者たちに伝えることを約束していた。
 「どうかつつがない良い旅でありますように」というその後ろ姿を見送りながら、私は博士の「サンマルコス大学はペルーの″文化の家″として機能していく」という言葉を反芻していた。
2  あれから七年――東京にも桜の花が薫りはじめた本年(一九八一年)四月、博士夫妻が来日した。
 じつは、七年前にお会いしたとき「日本の四月は美しい。ぜひそのころ、日本へ」と、ご招待したのである。約束を果たせて、私は嬉しかった。ガストン・ポンス・ムッソ現総長と、ペルー第一の歴史学者の息女であり、同じく歴史学者であるマリア・ポンス・ムッソ女史も一緒であった。
 緑の武蔵野に立つ創価学園で、懐かしきゲバラ博士一行と、私は再会した。もはや白髪になられ、七十歳を越えられた博士であるが、たいそうお元気で、話は尽きることがなかった。
 とりわけ、創価学園の入学式で博士が行った記念講演は、平和、文化、教育の前進を希う心情にあふれ、万雷の拍手につつまれた。そのさい、博士一行から私に、南米最古の大学であるサンマルコス大学名誉教授の称号が授与されるという光栄に浴した。日本人で初めてのことであったようである。

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