Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

日中関係三羽ガラスの一人 孫平化氏  

「私の人物観」(池田大作全集第21巻)

前後
2  以来、さらに三たび重ねた訪中のつど、孫氏とは連日のように語り合った。そうして私たちに芽生えた友誼の情は、日に日に確かなものになっていった。
 一九七四年十二月、第二次訪中の折、私は周恩来総理と北京市内で会見した。当時、周総理の病状悪化が観測されているころだった。会見が終わって、日本人記者団との会見に臨もうとしていた私に、孫氏が言葉をかけてこられた。
 「周総理は、お元気だったでしょう」
 私は、孫氏の目を見た。その目が、何ものかを語りかけているようであった。
 私は、記者団に、周総理は、お元気でしたが、気力で生きているようだつた、と伝えた。
 しかし、実際にお会いした総理は、気力を振りしぼって、病床のなかで、内外の難関に立ち向かっておられるようだった。その厳しい風貌のなかには、忍び寄る死の影が感じられた。周総理が逝ったのは、それから一年後のことである。
 一九七五年四月の第三次訪中でも、約一週間にわたる北京、武漢、上海の全行程に、孫氏は同行してくださった。北京から武漢まで十七時間揺られつづけた列車の中でも、私たちは肝胆相照らして語り合った。日中両国の長年の懸案であった平和友好条約が調印されて一か月後の第四次訪中のさいも、同行の労をとってくださった。
 歴史の大きな転換の渦中にあった中日友好協会では、秘書長の決裁を待つ仕事が山積していたことだろう。氏の多忙さを気づかう私に、
 「私がいないほうが、人は育つのですよ」
 さりげなく言われながら、朝と夕とをいとわず旅の面倒をみてくださったその誠意と友情は、身に染みて忘れられない。
 連日の案内の努力に感謝して「申しわけありません」と言うと、
 「いやいや心配にはおよびません。私も第四次訪中団の一員ですから」と、とても六十を越えたとは思えない元気さであった。
 上海のホテルでは、孫氏もともに朝食の膳につかれ″日本の味″を賞味していただいた。鰯の丸干し、納豆、豆腐、みそ汁……等々。
 以前、日本留学の経験のある孫氏から、当時の思い出とともに、″好物″をうかがったことがある。それで、妻がそっと持参したものであった。孫氏はことのほか喜んでくださり、和やかな朝のひとときとなった。
 氏は青春時代、東京工業大学付属予備校に三年、学部に一年半在籍し、応用化学を専攻したという。民家に下宿し、自炊もした。大学イモなどに忘れられぬ思い出があるという話もうかがったことがある。
 しかし折から日中間に暗雲が重苦しく垂れ籠めていた時代である。氏が、日本の官憲に仮借なくいじめられたことを思い出すと、私の胸は痛い。
 戦後、氏は中日友好協会の寥承志会長のもとで活躍されてきた。十数回を数える来日経験は、中国の対日関係スタッフのなかでも最も豊富なものである。氏が往来を重ねるうちに日中間の大空には、美事な友誼の橋が輝いてきたといってよい。
3  今年(一九七九年)五月、孫氏は、中国各界の代表六百人を乗せた友好の船「明華号」の副団長兼秘書長として、寥承志団長とともに来日した。「明華号」が下関、大阪、名古屋を経て東京の晴海埠頭に入港したその翌日、摩氏、孫氏にお会いした。
 そのときの孫氏の笑顔には、長年の労苦をくぐりぬけた、晴れやかさがあった。寥、孫のお二人と一別以来のことを語り合ってから、私は中国というと少年のころの深い思い出を語らずにはいられなかった。それは、戦死した長兄・喜一のことである。兄は中国大陸へ出征した。一度は無事に帰還し、そのとき、小学生の私に戦場の悲惨な状況を諭すように語ってくれたことがある。
 「日本軍はひどすぎるよ。あれでは中国の人があまりにも可哀相だ」と。
 大好きだった長兄のこの言葉は、今も脳裏に刻み込まれて消えない。私は、いつの日かその償いをしなければならないとの思いを密かに心にいだくようになっていた。昭和四十三年に提案して以来の日中関係打開への行動は、一つには、少年時代に聞いた長兄の言葉にその淵源があるといってよい――。
 そんな私の話に耳を傾けておられた孫氏は、今、長兄が生きていればほぼ同じ年齢ということになる。長兄が生きたこの短い生涯のあいだ、孫氏の青春もまた戦争によって開花を封じられたのであった。私は一種の感慨を禁じえなかった。
4  不戦、あるいは平和――。海陸を隔て、そして思想の立脚地は異なる者同士であっても、互いの心の底に揺るぎない友情を包むことができるとすれば、それは信義の積み重ねを共有することによってであろう。
 そして、私は、孫氏との幾夜を重ねても尽きぬ率直な語り合いが、それを可能にしたのであろうと確信する。心からお世話になった孫氏のますますのご健康とご活躍を祈る日々である。

1
2