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日蓮大聖人・池田大作

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風雪に耐えて咲く夫婦桜 鄧穎超女史  

「私の人物観」(池田大作全集第21巻)

前後
2  「このたびのご訪問は、春の桜のように、歴史に薫り残ることでありましょう」
 桜に寄せて私がそう申し上げると、
 「日本の友人の友好的な感情は私たちの心のなかに、非常に素晴らしい印象として残るにちがいありません。私たちは、国に帰ってからも、皆さん方の友情が桜のように美しいものであることを、折にふれて思い出すにちがいありません。とりわけ毎年、桜の花の咲くころには、最も懐かしく思い出されることでしょう」
 言葉のはしばしに、対する人を大きく包み込むような心の温かさをにじませながら、鄧女史は応接してくださる。時間が許せば私の家にも訪れたかったとまで言われた。
 「でも、今とうしてお会いでき、私の心は、もうご家庭にうかがっているような気持ちになっています」
 誠意あふれる言葉を、私は、故周恩来総理を思い起こしつつ、万感の思いで聴き入っていた。
 いつしか、北京の人民大会堂で初めて郵女史に・お会いしたときの光景がよみがえってきた。
 それは寥承志中日友好協会会長が主催してくださった歓迎宴の席であった。女史は私の隣に座られた。寥承志会長は、実の姉のように女史のことを気づかいながら、温かい目を終始注がれていた。訪日の意向は、この席で女史の口から直接うかがったのである「鄧小平副総理もまもなくお国へうかがいます。私は、桜の満開のころ行きたいと思います。先生は賛成されますでしょうか」
 「大賛成です。ぜひ……」
 女史は、つづいて、周総理が日本へ留学していたころは、総理とまだ知り合っていなかったと述べ、「こんど、お国へ行くのは、日本の友人の方々にお礼を申し上げるために、そして友情をさらに深めるために行きたいのです」と、淡々とした口調で話された。
 「桜の季節に」――それと同じ言葉を私は、周総理からもうかがっていた。一九七四年十二月にお会いしたときのことである。
 そのとき、総理はすでに病床にあり、「訪日の願望はあるが、無理でしょう」と、もはや死期を覚っておられるごとくに言われた。総理は十九歳の秋に来日、留学され、滞日一年半のうちに二度、日本の山河を彩る桜を目にしている。以来、総理の″心のなかの日本″は、常に撩乱たる桜の追想と折り重なっていたことであろう。
 「五十年前の桜の季節に私は日本を離れました……」と感慨深げに話されていた総理の言葉が、今も耳朶に残っている。
 私がお会いしてから、春去り秋逝き、一年余にしてついに総理は不帰の人となり、桜花舞う曾遊そうゅうの地を二度と見ることはなかった。
 青年・周恩来が日本を離れた一九一九年の春から数えて六十年――今、鄧女史は夫の遺志を胸に秘めて、春爛漫の日本の土を踏まれたのである。
 私は、用意してきたアルバムをお見せした。そのなかに″周夫婦桜″が写っていた。″周夫婦桜″は鄧女史の来日を記念して創価大学のキャンパスに植えた一対の桜の若木である。そんな由来を女史に説明してさしあげた。
 ご夫妻の住まいの庭には以前、二本の桜があった。二人で大事にされていたが、うち一本は枯死してしまったこと、また、ついにその桜のもとで写真を撮り残さず、それが鄧女史の心残りであることなどは、私も女史からうかがっていた。
 「この桜は、きっと大きくなると思います」と申し上げると、鄧女史は、笑みをたたえて顔を上げ、
 「これは、私たちのあいだの友情を象徴するものでありますし、皆さま方の事業が、ますます発展し大きくなることを象徴していると思います」と言われた。
 厚い信義の香りが、静かな言葉に湛えられていた。
 桜の写真に見入る女史の瞳の奥には、周総理の面影が映じていたのかもしれない。
3  七十五歳。白髪まじりのおかっば頭。小柄な体を包む茶色の中山服。質朴淡如としたなかに稟とした気品が漂っている。また頭脳の鋭さ、明晰さは、衰えを知らぬげである。
 女史は、長い革命の歳月に鍛え抜かれた闘士である。名門・天津女子師範学校在学中に勃発した、祖国独立を求める「五・四運動」では、日本から帰ったばかりの周青年を知り、戦いをともにしている。鄧女史は遊説部長として、街頭や農村で宣伝工作に努めた。
 デモでは警官隊とわたりあい、周総理が警察に捕らわれると、その釈放のために抗議におもむき、「われわれを身代わりに投獄せよ」と迫ったという闘志の持ち主である。時に鄧女史は十六歳の女子学生であった。
 あの一万二千余キロにおよぶ長征にも、二人はともに加わっている。
 終日終夜、原野を走り河獄を越える強行軍は、女性の身には酷烈をきわめたにちがいない。栄養が行き届かぬうえに、心身ともの過労から、鄧女史は途上、肺病に倒れてしまった。同じころ周総理も肝臓を患い、夫妻ともども担架に揺られていたこともある。
 夫妻が、あの長征を生き延びたのは奇跡的ともいわれる。
 私は、北京で鄧女史に会う前、初めて南京を訪れ、新中国誕生前を夫妻が過ごされた梅園新村に行ったときのことを思い出す。夫妻は敵の厳しい監視下に生活されていた。その家の中に、雨花石と呼ばれる血のように真紅に染まった小石が保存されていた。夫妻が、革命の先駆者十万人の処刑の血を呑んだという雨花台から拾ってこられたものである。あの長征を生き抜いた夫妻は、危機と隣り合わせに生きていた南京時代、この先人たちの血に洗われたような雨花石を見つめながら、未来を凝視していたのであろうか。
 一九二七年、厳しい弾圧のなかで地下にもぐったときに愛児を亡くされたと聞く。こうした悲しみも一切乗り越えて、二人は中国の建設に生き抜いてこられた。
4  眼前の部女史は、そんな主義主張を貫く芯の強さを内に包みつつ、あくまでも気さくでやさしそうな笑顔を絶やさずにおられる。全国人民代表大会常務委員会副委員長、党中央政治局員といういかめしい肩書きが似つかわしくないほど穏やかで、庶民的な方である。
 革命に生き抜いた人物ゆえ男性的な方と思っていた。しかし三度の語らいのうちに、女史の濃やかな神経の行き届いた応対と、温かい人柄に、女性らしい、心の優しさを内面に豊かにたたえた人であることを知った。
 その優しさ、濃やかな心配りが、激務の周総理を、その生命の火が消えゆくまで強く支えつづけたのであろう。
5  寒風に耐え抜いた桜は、時が満ちれば絢澗と咲き薫る。
 六十年の風雪に耐え抜いた不動の美しさと気品が、女史には輝いていた。
 あの若い″周夫婦桜″も、幾春秋を経て、やがて大樹に育ちゆくことであろう。そんな桜の花かげに、にこやかにたたずむ鄧女史の姿がふと想像されるのである。

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