Nichiren・Ikeda
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清秋の思い出を分かち合う 趙撲初氏
「私の人物観」(池田大作全集第21巻)
前後
1 昨年(一九七八年)、中秋の名月の日、私は北京にいた。
四度目の中国への旅も、終わりに近づいていたその日の朝、明の十三陵の一つである定陵を見学した。この中国明代の皇帝墓陵を散策しながら、私は同行してくださった趙撲初氏と心ゆくまで語り合った。
氏は、中日友好協会副会長として両国の友好親善に心を砕かれてきた方である。また、中国仏教協会責任者でもあり、詩人、名筆家としてもよく知られている。天台の法華経に精通し、毎日、法華経を読誦しておられることも有名である。
話題は、おのずと仏教のことにおよんだ。法華経を漢訳した羅什三蔵については、その訳は直訳でなく、わかりやすい、それでいて、もとの経典に忠実である、と結論していた。そして「仏教の精神は本来、民衆と結びつくものです」と述べていた。さらに、仏教は衆生のなかに入るのが正しい道だと思う、とも確信をもって語っていた。経文の「一大事因縁」や「五味」「開示悟入」などの意味についても論議を交わした。
折あしく、朝方から雨模様であった。墓陵の石畳が小雨に濡れて光っている。趙氏と話を交わしながら、私は大陸で仰ぐ澄んだ名月を見たいために、今夜が晴れてくれればいいと思った。この日を記念して、私は趙氏に一片の詩を前日、贈っていたのである。それは「お月さまの願い」と題して私が少年たちに書き贈ったものである。
2 この日の夜、人民大会堂で寥承志中日友好協会会長、鄧穎超女史(故周恩来総理夫人)が出席されての歓迎宴があった。それを終えて宿舎に帰ったとき、訪中団の通訳の青年が「歓迎宴の席で、趙撲初先生から、預かりました」といって、贈り物を届けてくれた。
そこには、静かにして深く墨痕鮮やかな字がしるされていた。風格のある伸びやかな気品を備えた書体である。私の詩に対する返礼として「賦小詩三章」としたためられ、五言絶句が流麗にしるされていた。
「……中秋月皎々 疑在宝明中 置身蓬莱島」
一首は私の詩を読んでの感想が書かれている。
二首と三首は――
「我は今 君の詩に和し
うちとけて玄妙を談ず
中秋に雨は止まずとも
心の月は常に相照らす
中秋に重陽の日の如く
共に長城に登る
天高く雲高くも
兄弟の情を尽くさず
一九七八年中秋 趙撲初」
さらに、つづきの文字がそのあとにしるされていた。それは五言絶句の詩であった。
「詩成りて 雨急に止む
外に出て 月の出づるを待つ
世界に光明を放つを
君と共に喜ばん」
三首書き終えたところで雨がやみ、この一首を付け加えられたのであろう。こうして四首がしたためられ、重ねて「趙撲初作」と署名されていた。
3 詩作が終わると雨がやみ、氏も今宵の名月を心待ちにしているという心情が伝わって、味わい深かった。
月は雲間に隠れてなかなか姿を現さなかった。私は仕事の合間に宿舎から夜空を見上げたのだが、とうとう北京の満月を仰ぐことはできなかった。が、夜半、たまたま路上に出た訪中団のカメラマンが、美事な巨大な中秋の名月を見たと語ってくれた。それはほんの一瞬、北京の市街を皎々と照らし、その演出の幕を閉じたという。その利那の満月と趙氏は瞬間語り合っていたにちがいない。
遠く奈良時代、遣唐使とともに中国に渡り、在唐五十余年、長安で没した安部仲麿が、故国を偲び詠んだ歌をふと思い出した。
「あまの原ふりさけみれば春日なるみかさの山にいでし月かも」
後日、聞いたことであるが、同じ日、古都奈良は浩然とした満月に明々と照らしだされていたという。三笠山の山かげからまさに月が出ようとするとき、なだらかな山の稜線が緋色に染められて、山火事と見間違うほどだったとのことである。その山の端から、しだいに顔をのぞかせた中秋の月天子は、小さな奈良盆地から仰ぐと、とりわけ大きく美しく見えたことだろう。
去りゆく千二百年の昔を今に、趙氏と私のあいだにも、月を介して国境を超える心のふれあいがあった。
越氏に初めてお会いしたのは、一九七四年五月末、私の第一回訪中の折である。北京空港に中日友好協会の寥承志会長ご夫妻、張香山副会長、孫平化秘書長とともに出迎えてくださった。
その数日後、北京の代表的名園の一つである頣和園に案内していただいたとき、その入口で待っていてくださった。黒っぽい中山服を着られ、杖を手にされていた。
氏は私より二十歳ほど年配であられる。品格があり、端正な顔立ちで、いつも背筋を伸ばし、微笑をたたえておられた。言葉の端々に、中国仏教界の最高の理論家である氏の深い教養がうかがわれた。
園内は鮮やかな緑に包まれ、空は青々と澄み渡っていた。そこの昆明湖に舟を出していただき、周遊した。
氏は、自分の精神の遍歴も話された。
「私は、以前、慈善事業もやりました。戦争の難民や不幸な子供たちの救済を一生懸命やってきました。しかし、私には悩みがありました。当時、私は数百人の不幸な子供を救済しましたが、古い社会は、不幸な人を絶えず出していって、私たちがどんなに努力しても、どうにもなりませんでした」
そうした悲惨にあえいでいた当時の民衆の生活が、新中国建設のなかで、どのように克服されていったかを淡々と語られた。
十五年戦争といわれる日中戦争の時代、氏は二十代、三十代であった。町には、多くの人びとが飢えていた。餓死する人も多かった。
「道端で、飢えと寒さ、病気などで多くの人が死んでいきました。大部分は赤子であり、農民でした。しかし、そうした姿を見ても救う手だてがありませんでした」
煩悶に満ちた氏の若き日が彷彿とするようであった。氏の話は、当時の中国仏教界にもおよんだ。
「仏教には、自分たちで労働し、生産していく伝統がありましたが、封建社会の影響を受け封建のほこりをかぶってしまいました」
良き伝統を失った仏教は、その結果、人民大衆を苦しめる存在に堕していったことも指摘された。率直に仏教の腐敗堕落を語り、仏教の本来の精神は「人民に奉仕する」ことにあると主張されたことが、とくに印象深い。
4 昨年四月、訪日されたときには、東京でお会いする機会があった。中国仏教協会訪日友好代表団の団長としての多忙なスケジュールをさいて訪ねてくださった。
頣和園でお別れするさい「来日されるときには、ぜひ訪ねてください」との私の言葉に「必ずまいります」と言われた。四年後に、そのとおり信義を貴かれたのである。
5 この一月(一九七九年)、第一次創価学会青年部の訪中団が北京へ行った。私は青年たちに趙氏への贈り物を託した。別にこれといったものではない。平凡な一本の杖である。
趙氏からは、黄色い上質の紙にしたためられた次のような「詞」が届いた。
「清秋思い出は深し 良友は真心から
我にすばらしき杖を贈る
その軽きこと片雲をたずさえるが如く
春風に向かえば 心はますます広々と
君とともに万里を行き
社会の太平を楽しまん」