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日蓮大聖人・池田大作

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歴史家 トインビ一博士  

「私の人物観」(池田大作全集第21巻)

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2  一九七三年五月十六日。対談二日目――。話題は、博士の一言われる宇宙の背後にある″究極の精神的実在″におよんでいた。ソファに長身を沈めた博士は、眼鏡の奥の普段はやさしい眼に真剣な光をたたえ、白面の額の皺を一層深くされていた。あの端正な顔立ち。
 私が質問する。「そのような唯一的存在とは、いわば宇宙に普遍するとともに、あらゆる具体的存在物のうちに現れている″法″のことをさします。したがって、それは唯一的存在ではあるが、万物の存在と離れてあるのでもない。このような″法″を唯一者として抽出する宗教とそ、真の高等宗教になりうるのではないでしょうか」。
 時を移さず、博士の回答が返る。「たしかに、人間には高度な統一性を見いだそうとする強い傾向性があります」と述べ、「この統一性を″法″として考えることができます」「″宇宙の背後にある精神的実在″は″法″であると考えられます」。
3  また一つ、私たちに重要な一致点を加えたようであった。大乗仏教への驚くほど深い造詣。そして、その濁りない声の高い響き。
 前年五月の五日間に、私たちは第一回対談を行っていた。その後、往復書簡に対話を引き継ぎ、この年の対談までには原稿用紙二千枚を超える分量になっていた。その間、若い私ならまだしも、すでに八十代半ばにあった老碩学の学問への情熱に、私は心打たれた。そして独自の巨視的な歴史観と、それに裏打ちきれた見事な時評。この日も対談は「ナショナリズムとキリスト教の関係」「一神教と多神教」「道徳再建の方途」などとつづいたが、博士の物静かな積極さは少しも崩れなかった。
 高齢からくる難聴で常に補聴器をつけておられたが、頭脳の切れ味は衰えを知らぬげであった。
4  午前十時に始まった対談が、たちまち昼過ぎになっていた。前日の第一日目は、夕刻近くまで語らってくださった。終わると、きまって夫人とともにエレベーターのところまで見送りに出、にこやかに両手を振りつボつけておられた。その身についた謙虚さ、誠実さ。
 五月十九日。対談の最終日――。私は最後の質問を行った。「私は、きょうでトインビー教室の卒業生となったわけですか」と。博士は笑いながら、「私はあなたに優等生のαを与えます」と回答された。英国では成績順にα、β、γをつけるのだそうである。ユーモアも時折とばす博士だった。良き時代の英国ジェントルマンそのままの温厚篤実な笑顔。
 こうして終わった私たちの対談は、二年にまたがり延べ十日間、時間にして優に四十時間を超えるものになった。
5  そんなお元気なトインビー博士が脳卒中で倒れたと聞いたのは、翌年八月のことだった。対談中から私がいだいてきた杞憂が現実になってしまった。以来、闘病生活に入られたが、博士回復の朗報はなかなかこなかった。
 半年後の七五年二月、ベロニカ夫人より届いた手紙は、病状の半ば絶望的なことを知らせるものだった。
 「今となっては、もう回復し、もとのようになる希望はないと思われることをはっきり申し上げるべきだと思います。とくに、主人がもとの知的能力を取り戻すことはないように思われます」
 「主人を尊敬される人びとにとっては、今の主人ではなく昔の主人に心を留めておかれるほうがよいと感ずるのです」――。
 私は、暗然たる気持ちに襲われた。
 「一日中眠ったきりか、半分眠った状態」とのことである。ただ、博士が薄明な意識のなかでなお本を求め、本当に読めているのか、あるいはぺージを繰るだけなのか疑問ではあるが、本を手にしている、とあった。
 そういえば博士は、文章を書き、本を読んでいるときが最も充実感があると言われていた。飽くことのない知識欲と自制心とによって、学究としての晩節を全うされていた博士だった。私は、死に立ち向かう巨大な理性の抵抗をはるかに思いやりつつ、日夜、回復を祈った。
 翌三月、博士との共同作業をまとめた『二十一世紀への対話』上下二巻がようやく発刊された。五月、それを携えてロンドンを訪れたが、もはや博士との面会は無理であった。私は秘書のオール女史に託するだけにとどめた。
 博士の偉大な精神力は、死の重圧にじつに十五か月間も耐え抜いたが、ついに同年十月、八十六歳の天寿を全うされて逝いたのである。葬儀は、博士の亡くなったヨークシャー州の小さな村で、親族と数人の看護婦と、いくらかの村人とで簡素に執り行われた。長く看病に献身されたベロニカ夫人も「勇気をもって」耐えておられる、とオール女史が伝えてくれた。
 夫人からは翌月、書簡がきた。「……私のなすべき仕事は、ここにたくさんあります。これらのために時を過ごすことは、休養と気晴らしを求めるよりも、悲しみと喪失感に立ち向かう最上の方法なのです」と。
 健気にも勇気を支えとし、愛する夫との永訣の悲しみを乗り越えようとする夫人の心情が、手書きの筆跡ににじんでいるようだった。
 秋深い十月のヨークシャーは、落ち葉が厚く散り敷いていたことだろう。それは、あの明るく緑にあふれたメイ・フラワー・タイムとはあまりにも対照的である。
 思えば、あの対談は、博士の研究の生涯が、まさに最後の燃焼に向かっていたとき、未来に警鐘をとどめようとの共通意思から企てられたものであった。私の胸には、対談の冒頭に語調強く言われた博士の言葉が乱鐘のように湧き響き、力づけてくれる。
 「やりましょう! 二十一世紀の人類のために、語り継ぎましょう」

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