Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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東洋商業の二人の先生  

「私の人物観」(池田大作全集第21巻)

前後
2  神道主義による厳しい精神訓練も、虚しく消え去った。私はすべての圧迫から解放された自分を、どうすることもできなかった。
 私の心には、向学心らしいものが、芽をふくらませてきていた。ともかく、何かを読みたかった。新しい学問にふれてみたくなった。
 少々体を痛めていたが、友人の勧めもあって、翌月から、神田・三崎町にある東洋商業の夜間部二年生に編入して通うことになった。
 国電・水道橋駅近くにある学校である。神田一帯は、廃墟の町のように見えた。そのなかで、東洋商業は焼け残っていたらしい。
 しかし、教室は、破れた窓ガラス、粗末な椅子、電気も制限されて、薄暗い裸電球であった。折からの物資不足で、質素そのものであったといってよい。冬になると、寒気が破れ窓から直に浸透してきて、体の芯まで冷え切ってしまうのである。
 そんな荒んだ教室にも、なにかしら希望に満ちた新しい息吹があった。若き四、五十人ほどの級友たちの、真剣に輝く瞳は、教師に、黒板に、注がれていた。
3  夜学生にとっていちばんの勉強場所は、往復の電車の中である。殺人的な満員電車の中で、私はよく本を取り出して読んだ。
 授業が済んで、京浜急行・梅屋敷駅に着くと、時刻は九時を回っている。それから森ケ崎にあったわが家への道は、三、四十分もかかったであろう――疲労感に襲われるのが常だった。だから、正直なところ、わが家に着くと、勉強どころのさわぎではない。あすのために休むのが精いっぱいであった。
 物資不足のさなか、老いたる母親が、特別に「うどん」を温めて待っていてくれたり、「芋」や「すいとん」を用意していてくれたことは、いまもって忘れることができない。
 まだ海苔屋だったわが家は、夜、休むのが早い。しかし、母親だけは、いつも起きて待っていてくれたのである。「疲れるだろうね……疲れるだろうね……」と言うだけだった。
 当時、私は胸を患っていたから、疲れやすかったのである。無理を承知での夜学通いであったから、疲れ過ぎて学校を休まねばならないことも多かった。
 授業を終えれば、先生も生徒も、あすの仕事が待っているのであろう、忙しく家路に向かっていた。
 私には良い友だちが幾人もできた。ただ、先生方と個人的に話し合うような機会は、お互いに繁多なため、もつことが少なかった。それでもいまだに印象深く思い起こす先生が二人いる。
4  その一人は、珠算の先生である。東洋商業は、昔から珠算で令名を馳せていたといってよい。この先生は、いつもカーキ色の洋服を着ておられた。顔色は青白く、眉は太く、額は秀でていた。目はまことに鋭く、光り輝いていた。見るからに、秀才そうで、頭の回転が早かった。髪もやや長めにしていて、全体的に冷厳なところが、いかにも珠算の大家か達人という感じを与えていた。年は三十代後半と見えた。
 この先生は、私にとってはまことに驚異的な存在であった。それというのは、先生が問題を読み上げると、何億、何千万という、私には桁違いの数字が、よく通る声にのって流れてきたからである。
 私は、ソロバンが全く不得手である。待ったなしの読み上げ算には、完全にまいってしまった。
 私は、学校を間違えたと悩んだ。そんな苦しいだけのような珠算の授業ではあったが、いつも先生の態度には、畏敬の念をいだかずにはいられなかったのである。
 先生は、貧しい生徒たちに向かって、叱咤するように語ってくれた――「これからは、経済の時代だ。この学校では経済を徹底して教えたい。諸君、いまこそ勉強したまえ。力をつけてくれたまえ」と、まことに、勤労学徒に対する前途をば、切り開いてくれる天の声であった。
5  なかには、ただ義務的に黒板に向かい、授業が終わればそそくさと帰ってしまう先生もいたようだ。
 が、もう一人――英語の先生は、毎回の授業がまさに全力投球であった。「これからは語学の時代である。就中、英語が常識となる時代がくる。諸君はアメリカにも、ヨーロッパにも行きたまえ。否、行かねばならない。これからの青年は世界に目を向け、世界に雄飛するのだ。いまこそ自分は、全魂を打ち込んで諸君を鍛えてあげる。諸君も遠慮なく私にぶつかってきてくれたまえ」と。
 よれよれの背広――小柄な風采のあがらぬ先生であった。が、教え方はまことに上手であった。声も大きく、すさまじいばかりの迫力であった。英語の授業はじつに楽しかったといってよい。
 いま私は、多くの青年と語り合うたびに、このお二人の先生のことが蘇ってくる。お名前は失念してしまったが、あの貧しき学生たちを思ってくれた、冷厳な叫びの先生と情熱たぎる先生、このお二人を忘れることはできない。
 授業の合い問、私は、手づくりの、ザラ紙ノートに、先生から受けた新鮮な印象、教室の光景などを、よくそのまましるしたものである。三、四十枚ほど書きためたであろうか。気に入った詩句が多く、懐かしいわが青春の足跡として、そのノートを大切に保管していたが、惜しいことに幾度かの引っ越しで紛失してしまった。
 晴れて卒業の日、多くの先生方は、心から祝福してくださった。辛くとも充実した青春の一断面の日々であった。夜学生でなければ味わえぬ青春を知った喜びも、私には幸いであったと思っている昨今である。

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