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日蓮大聖人・池田大作

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写真家三木淳氏  

「私の人物観」(池田大作全集第21巻)

前後
2  そういう時代環境のなかでカメラに一生を賭けようなどというのは、ただ一途な青春の情熱がそうさせたのだろう。死に物狂いで仕事に取り組んだ。そして「ライフ社のカメラマンになるんだ」と宣言して、とうとうその至難の桂冠をかちえたという経歴からしでも、大変な努力家であろう。日本の報道写真界の草分けであり、国際的なフォト・ジャーナリストでもあられる。
 そういう写真界の大御所的な存在でありながら、三木さんの肌合いは非常に庶民的である。決して毀誉褒貶にとらわれない。だから、相手が著名人であろうと平凡な一庶民であろうと、相対し物を言う態度に少しも差別がない。そして、言うべきことはきちんと言いきるのである。
 私どもの機関紙のカメラマンたちも夜半までお宅にうかがったりして随分お世話になってきたが、暗室なども質素で、コンクリートの粗末な流しをタワシでゴシゴシと洗っておられたらしい。また機械をじつに大切に保存される姿に接し、彼らも大いに勉強するところがあったという。それらは木村伊兵衛、土門拳といった、三木さんが兄事した人びとの伝統を受け継いでおられるのではないだろうか。
3  また、まれにみる活動家である。三木さんは「写真家はトビ職人のようであらねばならない」という言葉を好んでおられるようだが、実際、お見かけする取材態度は若々しい敏捷さにあふれ、被写体と真っ向から格闘するような気迫がある。といって、その動き方は決して大仰でなく、むしろ軽快かつ端正でさえある。仕事の姿勢と同じく、何事にも真剣に考え、取り組む方である。あるとき「好きな道だからこそ、いろんな時を耐えられたのです」と言われていたが、厳しいプロの世界の試練をくぐってこそ、今日のすべてを身につけられたのだろうと思う。
 ポートレートを撮ってくださるというので、ある年の年末にお会いした。年ごとに髪の白さが目立ったが、若さに衰えはみられない。ご夫妻そろって歓談する機会があったが、私にはいつも心待ちな楽しいひとときでもあった。
4  そんな三木さんが重病で、脳腫蕩らしいとうかがったのは、昭和四十八年一月のことだった。さっそくお見舞いに手紙を添えて、病院に届けてもらった。病気になると、誰しも弱気になることもある。三木さんは、手紙を聞いて、しばらく目に涙を浮かべておられたという。けれども、そんな生死の境にいるのに、ご自身で撮影した三羽の鶴の飛期する写真を私に届けようと手配しているところだ、と語っておられたという。また、かえって私の健康を気遣っておられたとのことであった。私は、三木さんの心情を有り難く心に抱きしめ、一日も早く再起されるよう、朝にタに祈念した。
 その後、昏睡状態を繰り返したり、瞳孔が開いたりで大変だったと聞く。周囲では、葬儀の準備が語られるほどだったらしい。しかし優秀な医師の方々の技術と三木さんの生命力とが、困難な手術を奇跡的な成功へと導いた。まさに九死に一生を得られたのである。あとで闘病記を書かれたのを拝見したが、手術の前後に失った意識のなかで″三途の川″を見たという。川の渡し場に地獄の案内人らしい男たちがおいで、おいでと手招きしている。足がそちらへ向いていきそうになるのを必死にとらえて「馬鹿野郎! てめえたちと一緒に行けるもんか。為残していることがもう一つあるんだ」と怒鳴って這いずり帰ってきたというのである。三木さんらしい、男のなかの男らしい気骨である。
5  同年五月のある夜、私は東京・白金台のご自宅に、退院してまもない三木さんをお訪ねした。気力は相変わらず確かだが、体力がともなわず、内心やや焦っておられるようにもお見受けした。しかし、大変に喜んでくださった。病院での苦闘をともにされた奥さんも、ひとまず安堵しておられる様子であった。
 それから三年後の五月、すっかり元気を取り戻して取材にこられた三木さんとお会いした。もともと感情量の豊富な人である。目と目が行き合うと、涙がきれいに光っていた。
 「お互いに、もう少し長生きしましょうよ」――そう申し上げて三木さんの手を握る私も、胸が熱くなった。
6  カメラを手にする者は、現象世界の奥の深い心に目を凝らす。そうすることは、自分自身の心をつかみ、表現することにほかなるまい。それは、すでに詩人であり、芸術家の行為である。
 三木さんは、詩人としての感受性豊かな皮膚と、トビ職人のように強壮な心臓と、子供のように純真な魂を併せもっておられる。今はますますお元気で大学の教壇に立たれるなど活躍されているようで、なによりと思う。死との対決という決定的瞬間を生命の映像に刻まれて、三木さんはいよいよ同熟味を加えられているようだ。

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