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九億の民の「機関車」 鄧小平副首相  

「私の人物観」(池田大作全集第21巻)

前後
4  周首相の健康についての鄧副首相の話は、「周恩来首相と桜」のところで述べたとおりである。この七、八か月、ずっと入院していて、病状は思ったより悪く、仕事もできるだけしないように、党としても″管制下″においている、とのことであった。
 その話しぶりは、周首相への敬愛がにじみでていて、心から健康を気遣っている様子であった。
 周首相と鄧副首相の人間的な結びつきは、パリで勉学中の青年時代からである。無名の若者たちが救国の志をたてて、海外へ渡った。若き日の周首相は日本へ、そしてフランスに学んだ。鄧青年が上海から船でマルセイユに着いたのは十七歳のころとの苦学時代に、二人は知り合い、祖国に帰ってからは、長征にも参加し、生死の川をともに幾つも渡ってきた革命の同志だったのである。
 この同じ日の夜、周首相と会う機会があったが、周首相は「鄧小平副首相に会われましたか」と質問されていた。この二人が、互いのことを話すとき、なんともいえない絆が感じられるのは、青年時代から、自らの決めた道をどこまでもどこまでも、ともどもに歩んできた同志的結合が深く強いからなのであろう。
 このときの鄧副首相との会談は、約一時間にわたった。鄧副首相とは、それから四か月後、三回目の訪中のさい、人民大会堂で約二時間、日中平和友好条約など諸問題について話し合った。その時の鄧副首相は、談論風発、大いに語られた。
5  周首相が逝去して三か月――天安門事件が起き、鄧小平副首相は、そのすべての職を解任された。しかし、また一年三か月後に復活。今や、縦横に指揮をとり、中国の「四つの現代化」という目標を掲げ、全魂を傾けられている。
 再び復帰してのち、鄧小平副首相は「私には二つの道がある。出世する道と仕事をする道で、官職に就いて出世すれば楽だろうし、仕事をするなら老骨にムチ打って頑張らねばなるまい。党は決して私を仕事をしないような官職には就かせないだろう。私自身、そのような人間ではないのだ。毛主席は、私について七分の成績を認めながらも、三分の欠点があると批判した。しかし、私は、私の欠点は三分以上だと毛主席に答えていた。しかし私自身にも、いろいろ長所はある」と語ったと伝えられている。
 この不死鳥のような九億の民の「機関車」は、「鞠躬尽瘁、死而后己」(国のために力を尽し、死してのちやむ)という、限りなく尊敬する周恩来同志の精神を受け継いで、生涯、長征の旅をつ事つけていかれるのであろう。

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