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日蓮大聖人・池田大作

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行動する作家 アンドレ・マルロ一氏  

「私の人物観」(池田大作全集第21巻)

前後
1  「私は私の年齢からみて、歩兵として戦うことはできないが、戦車に乗ってなら戦える。言論でベンガルを擁護できるインテリは、身を挺して戦う用意がある者に限られる」――。
 この、一人の作家の発言が、世界的ニュースとなって、人びとの耳目を集め、良心を揺さぶったのは、七年前の秋であった。
 当時、バングラデシュの独立を求めての戦乱は、おびただしい悲劇を生み、大量の難民が血の川を逃げまどっていた。そんな折、まもなく古希を迎えようというアンドレ・マルロー氏が、義挙を叫んだのである
 あれ以来、私の心の内には、なにか氏と呼び合うようなものが生じたことは、事実である。何が氏を行動へと駆りたてるのか。噴き上げるような思いが行動をうながし、行動によって、自らを極限の状況におき、人間を確かめ、人間存在の奥に迫ろうというのだろうか。私は改めて、その文学的系譜と、それを生み出した行動をたどってみたいものである。
2  四十九年五月、モナ・リ、ザ展のため、マルロー氏は、フランス政府特派大使として来日された。最後となった四度目の来日である。このとき、東京で初めて、お会いした。
 骨太な体躯、長身である。大きな、薄いグリーンの目がよく動いた。話が熱をおびるにつれ、目はさらに大きく見開かれ、思索に入ると肘を膝について、あごの下に手を組んだ。風貌に年齢は隠せなかったが、議論には、それを感じさせなかった。
 芸術、文化の領域から環境破壊、核、人間形成と教育、生と死……対話は白熱し、昼食をともにして三時間近くにおよんだ。同行のヴィルモラン女史もご一緒で、涼やかな眼差しで聴いておられた。日本ユネスコ協会連盟事務局長(当時)の竹本忠雄さんらの明晰な通訳も忘れられない。
 二回目の対談は、翌年五月、パリ郊外のベリエール・ル・ビュイッソンにあるお宅であった。訪問する途次の、フランスの田園の豊かな緑が印象に残っている。広々とした敷地に塀を巡らせた古風な邸宅で、幾世紀の風雪を思わせる館であった。聞けば十七世紀の建物という。前庭もゆったりととられ、藤棚が、春の光の陰影を、地面に落としていた。
 このときも、いま聴きたいことを、いま話したいことを、前後の脈絡などあまり気にせずに、語り合ったものである。
3  前後二回の対話は一冊の本にまとめられているが、マルロー氏の、ときに淡々とした、ときに火を吐くような言辞が、耳朶を離れない。
 「われわれの世代にとって、もっとも重大な問題、最大の関心事とは、自分自身のことなのです。それはもっとも狭いものであり、およそ普遍的でない問題のはずですが、それこそがいちばん大切なことだと、現代の作家たちは考えています。要は、自分は一個の人間としてなにができるか、なにごとにたいして行動できるかということが大事のはずですがね……」
 こう話されたときのマルロー氏は、自らの来し方を告白されているかのように、真骨頂をのぞかせていた。
 何ができるか、何事に対して行動できるか――人の一生とは、作家にかぎらず誰もが同じであり、その営為こそが、人生であろう。行動によって、人は自分自身を知る。それは人間存在を、さらにはその根源までを知る確かなよすがとなるにちがいない。
 私はマルロー文学の研究者ではないが、氏の生涯の軌跡に、人間の条件=宿命と対峙しつつ、その波にのまれることなく、激しく拒否の姿勢を貫き、猛然と抵抗しつつ、人間の真実を究めようと歩んだ求道者の精神の鼓動をみるのである。
 アンドレ・モーロワは評している。「彼の不思議な魅力の根源的理由は、彼の生活が彼の作品に呼応している、という点にあった」(『現代フランス作家論』谷長茂、他訳、駿河台出版社)と。仏領インドシナの密林にクメールの微笑を追い『王道』を、広東と上海で革命運動の高揚と挫折のなかの人間を垣間見て『征服者』と『人間の条件』を出版した。スペイン内乱では国際義勇軍の飛行隊を指揮して『希望』を著し、第二次大戦下ではレジスタンス運動に投じ『アンテンブルグの胡桃の木』を出版した。そして、戦後のドゴール将軍のもとで文化相としての東奔西走の日々……。
 危険に遭い、軽蔑を超えて、死の影をみつつ氏は波瀾に満ちて行動した。それは人間の条件の実践的な解決を求め抜いた、勇気と意志の所産であるまいか。
 二回目の対談の折である。書斎には午後の光線が、しゃれた窓辺から束をなして差し込んでいた。黒猫が床を倦怠感をただよわせて、眠そうに動いている。話は二十一世紀の展望へとおよんだ。
 辻馬車から宇宙船まで、たった一世代のうちに変化を遂げた今世紀からみて、未来予測は困難である。十九世紀にあっては、われわれの世紀が想像もつかなかったことは、確かである。「同じように」マルロー氏は語った。
 「いまから百年後に二十世紀文明と絶対的に異る文明が起りうるということが、とうぜん、考えられてしかるべきでしょう。その場合、かつてヨーロッパにキリスト教がもたらした精神革命といったものが、ふたたび仏教によってもたらされないという保証はどこにもない、ということです」。
 紫煙をくゆらして、話すほどに熱をおび、タバコの灰が床に落ちるのもかまわず、氏は語りつづけた。知日家であり、東洋的なものへの親しみをもちつづけた方である。東洋の、西洋とは異なる精神性への注目は、生涯を貫くものである。思うに、晩年においてマルロー氏は、二十一世紀は再び宗教の世紀となるであろうことを思い描きつつ、精神革命の可能性を東洋の地に見いだそうとしたのではなかろうか。私は第一回の対話でも、氏の発言の随所に、そのことを直感していた。
4  マルロー氏は七十五歳の誕生日を迎えたばかりの五十一年秋、逝去された。死は、この求道の士にとって生涯の主題であったが、私は偉大な最期と信ずる。そして氏は、沈黙したのではない。行動という勇気をもって、無言の声を発しつづけておられるのである。

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