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日蓮大聖人・池田大作

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大好きなや″海賊先生″  

「私の人物観」(池田大作全集第21巻)

前後
1  「僕はね、昔、瀬戸内海の海賊を指図していたかもしれないのだ」
 そんな冗談を言って、快活に笑う一人の青年教師の面影が、今も鮮やかに思い出される。
2  昭和十五年の春、尋常小学校を終えた私は、近所の羽田高等小学校へと進んだ。この学校は翌年には国民学校制への切り替えとともに、萩中国民学校という名称になった。私はそこで十二歳から二年間を過ごしたことになる。
 ″海賊先生″と自ら称し、生徒からもそう呼ばれて心から慕われていた岡辺克海先生は、そのときの担任の先生である。
 ひょっとすると瀬戸内海を荒らし回った藤原純友の末裔であったのかもしれない岡辺先生は、進んで″海賊″を名乗るだけあって、まことに男らしい風貌で、真顔のときは唇をきりりと真一文字に結んでいる。髪も黒々と濃かったように思う。まるで大和魂を鋳固めたような顔つきであられたから、今思えば″海賊″よりは古武士にかよう精悍さがあった。国民服に包んだ姿も立派であり、背も高かった。
3  そんな一見こわいような先生が、教室では不思議に生徒の心を引きつけてしまうのである。私の席は、黒板に向かって右隅の廊下側で、前から三番目ほどだったから、廊下をみしりみしりと踏みながらくる先生の足音をいち早く聞きつける。すると、待ち遠しいような気分がわいてくるのである。
 先生は全教科を教えられた。教え方は、ポイントを明確に、深く打ち込んでいくというような、大変にわかりやすい授業の運び具合だった。私は、いつもその話しぶりに引き込まれるような思いで聞き入った。
 先生は、文字どおり丸裸で教育に打ち込んでおられたのであろう。飾りも、見栄も、外聞も、生徒の前では無用であった。ただみずみずしくエネルギッシュな使命感を、男ばかり四十数人の生徒たちにぶつけていった。そんな一途な姿勢が、子供たちの心にも伝わっていったのだろう。なにか心に染み込んでくるような話しぶりをされて、私は少しも授業に飽きることはなかった。また、生徒の個性を的確につかんで引き出していくというタイプの先生であられた。
 だから、いかつい先生を少しも″怖い″とは思わなかった。現に私は、二年間を通じて、先生に叱られた記憶をもたない。それは私がおとなしい生徒だったからだけではなかろう。先生は、子供たちには大らかに振る舞わせていたように思う。
 ただ、あの切れ長の鋭い目には、心のなかの何もかもを見抜かれるような思いがした。生徒のなかには、手工の宿題がどうしても巧くできず、窮して、家族の作品を提出するような者があった。そんなとき、先生は黙っておられたが、いま思い浮かべる先生の眼差しは、どうも、ちゃんと見抜いておられたように思えるのである。
 そんな先生の男らしさが、全生徒には、まことに魅力であった。
4  戦争一色の時代であったから、先生と一緒に遠足やハイキングに行ったというような思い出は少ない。ただ、よく相撲をやった。先生は、りゅうとした回し姿になって、容赦なく私たちを鍛えてくれた。全校の対抗試合があって、私も回しをつけて頑張ったが、体が小さいので、よく負けた。そんな鍛錬もすべて皇民教育を目的とする国民学校である。そうやって、日中、先生も子供たちも、戦争のきなくさい雰囲気のなかで暮らしていたといってよい。
 私たちが卒業した昭和十七年の春には、太平洋戦争は勝利に勝利をつづけ、国民は酔っていた時代である。同級生のうちには、満蒙開拓義勇軍や予科練に志願し、若い命を散らした者もあった。私自身は、卒業と同時に、当時は軍需工場であった蒲田の鉄工所に勤務することになった。
 そうして皆、抗い難い時代の運命をたどっていった。やがて、わが母校の国民学校も空襲によって灰燼に帰し、今その跡地は公園になっている。
 戦禍の荒野にも、命ある苗木はすくすくと育つ。同級生はそれぞれ独立独歩の道を踏み出し、私は、ほどなくして信仰の道を知った。そして、ふとしたきっかけから、岡辺先生が、ご自身の郷里・岡山県倉敷市に健在であられることを知ったのは、戦後五、六年を経てからである。昭和四十六年二月、岡山市内で催された学会の「中国文化祭」にご招待し、お元気そうな先生の手をしっかり握りしめて三十年ぶりの再会を遂げたとき、私は胸がいっぱいになった。
5  先生は、戦後は郷里の中学校で教壇に立たれ、校長も務められた。お手紙によれば、五十年四月に退職され、今は社会福祉事務所で、家庭児童相談員をされているはずである。
 多忙に紛れて、まだ一回しかお会いしていないが、時折お便りをいただく。その達筆な文字は、先生が黒板に手早く上手な字を書いていく、その白墨の先に魅せられたように見入っていた、懐かしい教室の光景を思い出させてくれる。あるときの短簡では「大木になればなるほど風当たりも一段と強く、なるものですが、どうぞ風雪に耐えて……」と、また「雑草の如くあれ」と励ましてくださった。いまもって教え子の行く末を温かく見守っておられる先生には、感謝の念を禁じえない。
 最近、目を患って入院されたともうかがったが、どうかいつまでもお元気であっていただきたい。
6  教育の樹液が見事な果実を養いうるとすれば、それは、あの若き日の岡辺先生のような
 真(しんし)撃な人間教師によってこそ可能であろうと私は思う。教育といっても、ただ教育者の人格にあるという、この一言に尽きるといって過言ではあるまい。
 今は六十代も半ばを迎えられたであろうか、懐かしい大好きな″海賊先生″――。先生は、少年時代の二年間という一弾指に、見事に、平凡な子供たちの心に強い鮮を結んでくださった。
 私の心にも、先生とは、一言いしれぬ深い大切なものが強く残されているように思う昨今である。

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