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日蓮大聖人・池田大作

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ある無名の町医者  

「私の人物観」(池田大作全集第21巻)

前後
1  幼時の、衝撃の思い出は、いつになっても脳裏から消えることがない。それは、小学校二、三年ごろの夏だった。当時、私は東京・大田区の糀谷三丁目に住んでいた。
 敷地は東側が海の方向に面し、小川と土手で仕切られていた。西側は旧羽田街道に面し、南北に道があり、一区画をなしていた。広々とした敷地で、遊び場には不自由しなかったものである。
 敷地内に大きな池があった。もともと、このあたりは水田で、ここへ移転するにさいし地盛りをしたという。広い区画を地盛りしたのだから、相当の土を要した。そのため敷地の南側を掘って池にした。長方形の池でタテ四、五十メートル、ヨコ二十メートルはあったと記憶している。もっとも、子供のころに″大きい″と感じていたので、それだけあったかどうか。深さは大人でも背が立たなかった。
 池には、コイやフナがたくさんいた。近くの自慢の太公望が釣りにきて、日がな一日、緑の藻が浮かぶ水面に、糸をたれたものである。魚龍をいっぱいにして帰る人が、けっこういた。渡り鳥であろうか、季節になると飛来して、親鳥にくっついて、艦隊よろしく水面を気持ちよさそうに泳ぐ。へビが泳ぐのを見て、驚いたこともあった。身近に自然の呼吸を感じつつ育つことができたことは、今でも幸せだと思っている。
2  その池に、私は遊びに夢中のあまり、滑り落ちてしまったのである。夏になると、銀ヤンマが、それこそ群れをなして、池の周りを飛んだ。トンボ捕りに興じて、池が目に入らなかったのである。子供のころには、近くにありながら、なんとなく畏くて近寄りがたいものがよくある。私にとっては池である。それは泳げないからであった。
 池の端に、洗い場が丸太と板で簡単に組まれていた。屋敷内に畑があり、そとで採れた菜っ葉を洗ったりしたものである。その洗い場から落ちた。
 体が沈んでいく。もがけばもがくほど沈んだ。衣服が水を吸い込み、体が重くなる。手足をバタつかせ、ようやく顔を水面に出したかと思うと、また沈む。呼吸が苦しい。水を相当飲んだ。わずかな時間であったが、私は子細に覚えている。大声を出して助けを呼んだ。一瞬、もうだめだ、と思った。夏の日の灼熱の空が、別世界のように上空に広がっていた。
 力が尽きそうになった。こんなに苦しいなら、このまま気を失ったほうがいいとも思った。頭が、もがいては沈み、沈んでは浮かんだ。そのときであった。私の両肢に太い腕がグーッと差し込まれた。起重機に吊り上げられるように、私は一気に持ち上げられた。父であった。屋敷内に叔父の一家が住んでいて、従兄が急を告げてくれたと、後で聞いた。
 私は夢中で父にしがみついた。助かったと思うと、体中の力という力が、一挙になくなっていくようだった。気がついたら、部屋に横になっていた。医者を! ということで、誰かが呼びに走ったらしい。父は、一言も口にしなかった。頑固一徹のオヤジである。
3  この屋敷に移ってきたのは、父の兄弟二人で手広く行っていた海苔製造が思わしくなくなってからである。大正年間には、大森一帯で一、二の羽振りだったようだ。海苔を土台に手を広げ、東京湾での定置網による漁業も行った。瀬戸内の漁にならい、一時は広島から十名を超す漁師を雇い入れていたと聞く。事業の夢はふくらみ、北海道の開拓にも手を伸ばし、父は一か月がかりで釧路へ渡り、そこから白糠へよく通ったという。
 事業への夢が大きくふくらみ、家運は隆昌を極めた。だが数年がかりの定置網は失敗に終わり、開拓も資金をつぎ込んだだけで終わったようである。加えて関東大震災で海苔のほうも打撃をうけ、優秀な養殖場も海底の地殻変動で無用の長物になったりして、昭和に入ると一気に下降線をたどったのである。父の体もリューマチ等で思わしくなく、寝込むことが目立つようになる。
 「おれは事業をやった人間だ。死んでも人には使われない」――困苦のなかでも父はこう言いつづけた。長兄たちがアサリを干潟で採って生計を支えても、父は「おれは王者の暮らしだ」と、頑として姿勢を崩さなかった。
 そんな父を、今ではよく理解できる。成功もしたし、失敗もした。振幅の激しい人生であった。その振幅の両極とも、父の真実である。「人さまの世話になるな」とよく言ったが、それは自分自身に言い聞かせる言葉だったのかもしれない。節を曲げないといおうか、ともかく父は父なりの生き方を、良いときも悪いときも貫いた。母は、そんな父を容認し付き従っていた。
4  医者がようやく駆けつけてくれた。救急車も電話もなかったころである。気管支にも水が入り、呼吸が苦しかった。生来、丈夫なほうではなかったので、水中でもがき抜き、疲労も極に達していた。しかしお医者さんの顔を見ると、子供心にもホッと安堵した。「どうした」柔らかみのある声で言うと、人工呼吸を施してくれた。水を苦しみながらも吐くと体が一気に楽になった。父はそんな様子を無言で見守っていた。私はこのときほどお医者さんの有り難さを思ったことはない。
 風邪をひいて熱を出したりして往診を仰いだこともあった。母もよく、お世話になったというこの医師は、すでに逝去されている。生まれて初めて、死の恐怖に直面した出来事だっただけに、あのときの医者のにこやかに笑みをたたえた姿が印象に残っている。四十代だったろうか。今ではその顔も、さまざまな人と交錯して、鮮明ではない。
 母はあるとき、そのときに医者を待つあいだ、父には珍しく落ち着きがなかったと、回想していた。父の精いっぱいの愛情の表現だったのであろう。とともに、火急の時に助けに駆けつけてくれた人のことを、人はいつまでも鮮明に思いつづけるものである。私にとって、池に溺れたときの医師は、最高の名医であり、感謝の念が生涯を通じて去らないのである。
 と同時に、私はあの出来事で、父の体温のぬくもりを実感した。寡黙な父だったが、二、三日たって「どうだ、もう大丈夫か」と言った。池の近くで遊ぶなとか、こごとめいたことは、いっさい言わなかった。
 昭和三十一年、頑固一徹のままに生涯を終えたが、その後も溺れ死にそうになった事件を、父は口にしたことがない。それだけに、あの池は、私と父を今もしっかりと結びつけて、私の心のなかにある。

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